演歌レビュー(2)



藍川由美(ソプラノ)の歌う「演歌」のこと    


藍川由美にとっての「演歌」が何を指しているかということについては「ブック・レビュー(3)」をご参照いただきたいと思いますが、ここで改めて言っておきますと、それはまずは「原・古賀メロディー」を指しております。従ってこれについて何かを述べることは、『「演歌」のススメ』でも触れられていた「古賀政男作品集〜思い出の記」(ウィーン・シュランメル・アンサンブルとの共演盤で、ヨーロッパで先行発売され来月日本でもリリースされる藍川由美の最新CD)を聴いてからにした方が方が良いに決まってます。しかし既にこの人は1999年に「誰か故郷を想はざる〜古賀政男作品集」(コロムビア)を発表しており、また最近の彼女の歌唱表現には進境著しいものが見られますので、まずはいまの時点で藍川由美の音楽について少し考えてみることには意味があろうと考えた次第です。それに彼女の新作に触れる機会はこれからいくらでもあるわけですから。

というわけで、まず昨年6月に発売された「夏の思い出〜ラジオから生まれた歌」(カメラータ)から始めたいと思います。恐らくこれは先に述べた最新CDを別にすると藍川由美の最も新しい録音のひとつと思われますが、声の伸び、音程と強弱のコントロール、そして歌詞の解釈において、藍川由美の歌唱表現がまったく新しい段階にはいったらしいことを印象づけます。以前はヴィブラートを表現として排除しているような印象がありましたが、そういうことが「解禁」されたことを含めて発声が自然になったような感が強い。だから、以前の表現主義的な面が後退して「ソプラノで歌う美空ひばり」といったような自在さが出て来た。以前のように構えて聴くというような聴き方も必要でなくなった。いまではもうクラシック・プロパーの世界でも屈指の実力をもった世界的なソプラノ歌手のひとりと言うことが出来るだろうと思います。

このアルバムはその藍川由美が歌う戦後ラジオ歌謡名曲集ということになります。昭和21年5月から37年3月にかけて放送された「NHKラジオ歌謡」から16曲、それに他のラジオ番組から生まれた歌4曲、計20曲が歌われております。小生が知っていた歌は、「夏の思い出」、「雪のふるまちを」、「ちいさい秋みつけた」、「ぞうさん」といった超ポピュラーな曲を含めても半分もなかったように思いますが、藍川由美によって歌われるこれら戦後歌謡名曲のあまりの美しさに一聴して魅了されました。そうなのです。あまりの美しさにいくつかの曲では思わず涙腺がゆるみさえしました。レコードを聴いて涙が出るなんてことは滅多にあるものではありませんが、われわれはこういう歌と歌唱を持っていたんだと思うといっそう感動します。そうか、どこかわれわれの中にもあった洋楽コンプレックスというものは根拠のないものだったんだ、と。

但し、ここでつけ加えなくてはならないのは、ここに収められている曲は基本的には「演歌」ではないということです。古賀政男の作品も一曲収められておりますが(昭和22年の「やすらいの歌」)、これも「演歌」とは言えそうもない。リヒャルト・シュトラウスの曲だよ、と言われても納得してしまいそうな曲です。これは全体に言えることで、作曲技法において「演歌」を思わせる曲はほとんどありません。ブラームスかヴォルフかリヒャルト・シュトラウス風でないとすると、フランス歌曲(メロディー)かシャンソンを思わせる曲が多い。岡田知子のピアノ伴奏が見事なものだからいっそうそうした印象が強くなっているのかもしれない。事実その通りでピアノ・パートを別にすると@、C、D、F、G、H、I、J、K、L、O、Pなどは間違いなく「日本のうた」であると言うことが出来る。だからこのCDに収められているいくつかの曲を聴いて涙腺がゆるんだのは、曲によるというよりはむしろ藍川由美の歌唱の素晴らしさによっているのかもしれない。もちろんそれが曲と一体になった歌唱であることは言うまでもないことですが。

このCDのベスト・トラックはMの「ああプランタン無理もない」(サトウハチロー・作詞/中田喜直・作曲)だろうと思います。もちろん小生初めて聴く曲ですが、これは最も美しいシャンソンよりも更に美しいシャンソン系の超名曲です。昭和28年に発表された作品で、ピアニッシモで始まる「猫です/今夜もセレナーデ/春です/ああ/プランタン/無理もない」という導入部がこの上なく柔らかくて美しい。いま藍川由美にフォーレやドビュッシーを歌わせたら無敵かもしれないと思わせるほど。この曲をこれまで知らなかったのは残念至極ではありますが、これだけの解釈で聴けなかっただろうことは絶対に確かだから、まあよしとしよう。しかし、こういう知られざる名曲を最高の演奏で聴かせてくれる藍川由美という人はいったいどういう人なんだろう、と首をひねりたくなります。いまとは別のキャリアを歩んでいたら、あるいはエリー・アメリンクの後の世界最高のコンサート・シンガーのひとりになれたかもしれないのに。もちろんわれわれにはいまの藍川由美がいてくれて本当に助かっているのですが。尚、この曲における岡田知子のピアノ伴奏も絶品というほかありません。

以上、藍川由美の近作に沿って最近の進境について触れてみましたが、続いて彼女の「演歌」に進みたいと思います。先にも触れた「誰か故郷を想はざる〜古賀政男作品集」(コロムビア)です。伴奏は中野振一郎のチェンバロですが、「日本の伝統的な雅楽の音階で調律」されたチェンバロを使用しております。これは別に「凄いこと」でもなんでもなくて、内田光子などが一部のモーツァルトの曲で現代の十二平均律とは違う18世紀の調律のピアノで演奏したりしております。しかしいずれにしても、ここで聴かれる音(音程)がわれわれがこれまでの音楽教育や、洋楽や最近の洋楽化された邦楽を聴くことで親しんできた音とは違う音であることは確かです。とは言え、ここで聴かれる音楽は「演歌」以外のなにもでもないのですから、違和感などあろうはずはなく、ああやっぱりこれが「演歌」の音なんだと強く納得させられます。

しかし、1951年生れの小生などは「確かにこれは昔聴いていた日本の音だ」と思いますが、若い人などの場合などはどうなんだろうか。最近はサーカスの音楽などすっかり聴かなくなりましたし、チンドン屋もあまり見かけなくなりましたから、意識的にこういう音楽に接していないと「なんなのだ、この音は!」という反応もありうるかも。小生は演歌が好きでよく演歌を聴いておりますが、最近はどうも怪しい音(音程)の演歌を聴いていたような気もする。こういうことを強く意識させられるというところに藍川由美の「演歌」のひとつの特徴があります。つまり「ブック・レビュー(3)」でも少し述べたように、藍川由美の「演歌」は、オリジナル楽器によって「原典」を演奏する「オリジナル楽派」の志向と同じような行き方で「演歌」に対していると言うことも出来るわけです。そして「日本の音楽伝統」に向かうに当たっては、やはりこれは必要なステップなんだと思います。

内容に入ります。曲順は必ずしも古いものから新しいものへ、というわけではないようですが、いまのわれわれの耳からすると「前衛的」にさえ聴こえる比較的古いものに始まって(@「赤い靴のタンゴ」)、美空ひばりの名曲(O「悲しい酒」)に終るという構成は、いちおう旧から新へという風に受け取って問題なさそうです。というか、衝撃的な音楽に始まって、比較的耳慣れた音楽に終るという構成であると言った方がいいかも。こういうことを書かなければならないのは、このCDに関しては藍川由美の楽曲解説がないからです。さて、@は「ああこれは紛れもなくアルゼンチンの音階を使っているな」と思わせる名曲の名演奏です。ここに『「演歌」のススメ』で藍川由美の書いている古賀政男の音楽の一面がはっきりと聴かれます。Aの「ゲイシャワルツ」は小生としては「日本のサーカス音楽音階」と呼びたい懐かしいことこの上ない「音」が詰まっております。この「音」でないと芸者の悲しい恋は表現出来ないということもはっきりと理解出来ます。悲しい恋をしている女性に聴かせたらちょっとヤバイことになるんじゃないか、と思わせるほどです。

Bの「誰か故郷を想はざる」の「みんなで肩を/くみながら」の「くみながら」の部分の音階は小生にはまず歌えない。こういう音階のうたは多分いろいろ聴いたことがあるはずですが、少なくとも学校では習わなかったように思う(ひょっとすると小学校で習ったかな?)。Cの「サーカスの唄」はもちろん完璧な「サーカス音階」。悲しいうたをこれでやられると、胸が苦しくなります。これが日本人の感性なんだってことがよく分かります。D以下は飛ばして、Lの「人生劇場」。小生この曲については二葉百合子の名唱(村田英雄のそれがモノクロだとすると二葉百合子のそれは「総天然色」)を超えるものはないと思っているので、藍川由美の演奏が特に素晴らしいとは思いませんが、『「演歌」のススメ』の該当箇所を参照しながら聴くと学ぶところがいろいろとあるはずです。次はNの「無法松の一生〜度胸千両」。この曲では美空ひばりの極彩色の歴史的超名唱(村田英雄はこの曲でもモノクロ系でシブ好みの方には最高でしょうけど)に敵う演奏があるはずはないわけで、もちろん藍川由美も例外ではない。美空ひばりの歌からは「玄海灘の風と波と太陽」がくっきりと「目に見え」ますが、藍川由美のそれからはそういう「壮大な風景」は「見えて」来ない。小生金田たつえによるこの曲の浪曲風の演奏も大好きですが、名唱がたくさん揃ったこういう名曲の場合、藍川由美には分が悪い。

つまり大正10年の「船頭小唄」から数えても演歌には80年に及ぶ歴史があり、その歌唱法・演奏法についても、端唄・小唄や浪曲といった伝統的音楽のみならず、ジャズ、ハワイアン、ラテン、カントリーといった外来音楽からもいろいろな要素を取り入れて来ているわけで、この部分に踏み込まないと「演歌」がカッコのとれた演歌になることはないだろうということです。もちろん藍川由美はそんなことは先刻承知で、だからこそ演歌ではなく「演歌」と言っているわけですが、小生などはやはり両者に「接点」を設けて相互の「交流の場」が出来れば更に豊かな成果が期待出来るように思うわけですが、それは無理な注文というものなんでしょうか? こういう「注文」が出て来るのは、「人生劇場」や「無法松の一生〜度胸千両」で述べたような藍川由美の演奏に対する「不満」によっているわけですが、あるいはひょっとするとこれは彼女の最新盤「古賀政男作品集〜思い出の記」においてクリアされているのかもしれません。いやあ、早く聴きたい。

【2002/10/27 ER生】
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