時事・言論レビュー(1)

◆時局を語るに当たっては先ず経済学を踏まえるべし。  


◇時局を語るに際して、経済学を踏まえることが不可欠の要件になったのは比較的最近のことです。これは主として97年以降の、いっこうに底が見えなくなってしまった日本経済の危機的状況に因っております。ここで時局と言っているののは、政治、社会、経済、文化全般にわたることで、むしろその根底にあるものを指していると理解していただけると幸いです。

◇具体的に話を進めるために、最近出た加藤典洋の『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン)から特に気になった部分を引用してみます。加藤典洋という人は、1997年に発表した『敗戦後論』(講談社)以降、『戦後的思考』(同)、『日本の無思想』(平凡社新書)、『日本人の自画像』(岩波書店)等で、精力的かつ根底的な戦後(思想)批判を展開している、いまや日本を代表する優れた批評家といえる人です。その加藤典洋が次のように書いております。

◇「吉本隆明は・・・(中略)・・・こう言っている。新しい消費資本主義段階(「現在」)の到来を、個人所得の中に占める、自由裁量の消費の割合が過半数となったことで知ることができる。その第一の指標は、・・・生存に最低必要な消費以外のいわば一般消費部分が、全個人所得の50%を超えることである。第二の指標は、この一般消費部分のうち、生活水準維持のために毎月固定的にかかる住居費、光熱費といった「必需消費」以外の、遊びや教養に向けた、使っても使わなくてもよい「選択消費」の部分が、さらにその50%を超えることである。・・・「選択消費」とは使わなくても生活水準には関係しない消費の部分をさしている。そのため、この段階に入った消費者は、使わなくてもすぐには自分の生活に響かない消費の選択の幅を、所得の25%から50%の幅で新たにもつようになっている。だから、この「選んで使える消費を、仮にまるまるいっせいに使わないとしますと」、「生活水準を落とすことなしに、日本国の経済規模は多くて75%、少なくて50%まで、単純計算で規模が縮小してしまいます。そして、よくよく考えればすぐにわかるように、それだけの経済規模の縮小に耐える政府は存在しないわけです」。「国民がいっせいに、半期なり、一年なり、選んで使える消費を使わなかったら、政権はつぶれてしまいます」(「消費が問いかけるもの」1995年)。・・・ここにあるのは、消費者=国民という新しい等式であり、かつ消費者VS政府という新たな対立の構図である。「買い控え」とは、ことによればこの消費資本主義下、消費者=国民による、「無意識のゼネスト」とでも呼べる、政府リコールに向けた政治的行為の予兆的な先駆形なのである。」(同P.48〜50)

◇なんともまわりくどい文章ですね。しかし、言われていることは理解できます。では内容の方はと言うと、これはもう経済現象に対する無知まる出し、と言わなくてはならない。特にひどいのが引用されている吉本隆明で、経済学を「繰り込まない」「世界認識」というものの度し難さを100%見せてくれております。この「老いた独立左翼」は以前、マルクス経済学も近代経済学も「高度消費資本主義」の到来とともに破産したというようなことを述べておりましたが、ここではマル経を多少かじってはいても、近代経済学(この言い方が何を指しているのか不明なのですが。スミス? ワルラス? ケインズ? フリ−ドマン? それら全て?)の核心部分に無知であるかぎり、「現在」の経済現象の認識にはまるでお手上げなんだということを、完璧に実証して見せてくれています。

◇一体なにが問題なのか。ポイントは三つあります。まず第一は、吉本=加藤には経済学で「乗数効果」と言われることへの理解がまったくないこと。「乗数効果」と言ってもかなり常識的なことで、需要が需要を生むという経済に特有の現象のことです。ケインズによると、吉本の言うように日本の家計部門がいっせいに消費を25%減らすとどういうことになるか。ここでは「乗数効果」の逆がはたらくことになるわけです。例えば、それまで10%だった「貯蓄性向」がいっせいに25%になったとすると(「貯蓄率」が15%増える)、吉本が考えるようにGDPは単純に15%減になるわけではない

◇具体的に話を進めましょう。ケインズによれば、一般にGDPは「消費の一部や投資など所得から独立に決まる需要」を「貯蓄性向」(1マイナス「消費性向」)で割った値に等しくなる。吉本は上の引用部分で「貯蓄」をほとんど無視して話を進めているようですが(「使わない」というのがそれ?)、「貯蓄」(「所得」マイナス「消費」)が現在の日本経済において極めて重要な要因をなしていることは言うまでもないことです。そこで、例えば日本のGDPを500兆、「貯蓄性向」を0.1(この場合「消費性向」は0.9)としてみます。この数値を上の式に入れてみると、「所得から独立に決まる需要」は50兆ということになります。つまり、50兆÷0.1=500兆

◇このような経済において、所得の25%を「まるまるいっせいに使わない」ということになると、「貯蓄性向」がいっせいに0.1から0.25に跳ね上がることになる。そうするとどうなるか。上の式に0.25を入れてみればよいわけで、そうするとそれまで500兆だったGDPが、50兆÷0.25で200兆になる。つまり「貯蓄性向」の15%増(「消費性向」の15%減)が、なんとGDPの60%減をもたらす。

◇同様に、所得の50%を「まるまるいっせいに使わない」ということになると、「貯蓄性向」は0.5となる。そうすると、500兆あったGDPは100兆(50兆÷0.5)にまで減少してしまう。こういう事態になった時の失業率を想像できます? 言うまでもなくこれは、あの30年代アメリカの大恐慌ですら牧歌的に思えるほどのウルトラ大恐慌にほかなりません。と言うより、これはもう経済自体の崩壊と言ったほうがいいでしょう。「乗数効果」(ここではマイナスの)というものはかくまで激烈なはたらきをする。

◇つまり、「それだけの経済規模の縮小に耐える政府は存在しない」どころの話ではなく、「消費者=国民という新しい等式」そのものが一発で吹っ飛んでしまうわけです。「消費者VS政府という新たな対立の構図」は残るかもしれませんが、それよりも、ここに新たに現出するのは「万人の万人に対する闘争」といったような、より過酷な世界であるように思います。(言うまでもなく、現実の日本経済における上の式の「妥当性」というようなことは、まったく別の問題です。ここでは吉本に倣ってひとつの「モデル」で考えてみただけのことです。)

◇そこでポイントの第二は、「使わなくてもすぐには自分の生活に響かない消費の選択の幅を・・・」とか「生活水準を落とすことなしに・・・」などといった吉本=加藤的なミクロ的発想を、国民経済というマクロ的世界にそのまま敷衍すると必ず間違う、ということです(ある個人や小集団のアナロジーで社会を考えるような場合にも、同じようなことが言えるかもしれません)。「マクロ経済学」という分野を新たに(と言ってもいまから60年以上も前のことですが)確立したケインズが学ばれなければならない所以です。ケインズ経済学は破産などしておりません。ケインズ経済学に破産宣告をしたのはミルトン・フリードマンらのシカゴ学派だったのかもしれませんが、「日本の経済危機」という世界的問題の浮上は、いま改めて「不況の巨匠」ケインズを呼び出しているように思います。ここで言っているのは、ケインズにおける経済現象の理解の仕方(吉本流に言うと「世界認識の方法」)の話であって、ケインズ的「財政政策」や「金融政策」の当否といったようなこととは別の話です。

◇ポイントの第三は、「新しい消費資本主義段階の到来」などというものは、一時日本でも流行った「ポストモダン」と同類のファッショナブルな衣装(意匠)でしかなかったのではないか、ということです。しかし誰が「消費資本主義」なんてことを言い出したんだろうね。おおかたフランスのボードリヤール辺りじゃなかったのかな。日本人はおフランスに弱いからね。かく言うわたくしも昔はデリダやフーコーを一生懸命読もうと努めたものでしたが。チンプンカンプンでまるで理解出来なかったけど。まるで理解出来なかったと言えば吉本隆明も同様で、この人昔は「若者の神様」みたいな人だったから、『擬制の終焉』以下の「情況論」だけはそれなりに読んで来たつもりだけど、だいたいはチンプンカンプンで、いまも残っているのは比較的最近に読んだ『少年』(徳間書店)ぐらいのもんだからな。確かに『少年』は良い本だった。この人は本質的に文学者なんだと思う。

◇ひとつつけ加えますと、時勢を語るに当たって経済学が踏まえられなければならなくなったのは、本当は最近のことなのではなく、「産業革命」の世界的拡大が明確になった19世紀以来のことだったように思います。それはマルクスが革命思想の基礎に経済学をおいたということとは少し違います(最近の左翼はそういうことさえ語ろうとしないようですが)。「産業革命」の世界的拡大ということの意味は、社会がそのうちに「技術革新」を内包したということであり、その結果「経済成長」がその社会の所与になったということです。その社会は「乗数効果」(及びその逆)といったものを内包することになったわけです。それは伝統社会とはかなり異質の「成長エンジン搭載社会」(このエンジンは時々「逆噴射」する)の到来を意味します。

◇このことに関連してもうひとつつけ加えますと、「成長エンジン搭載社会」の到来ということは、「大衆社会」の到来ということとはちょっと違うことです。むしろこの社会は、その参加者・構成者にミクロとマクロの全体を統合する観点を持つことを要請しているのではないか、ということです。つまり「市場原理主義」といったものではこの社会はもたないだろう、ということです。しかし、それについてなにかを示唆した人物がいるとすれば、恐らくケインズをおいてはないように思われます。もちろんこれは経済学とは別の事柄ですが。

◇上に述べたようなケインズ経済学の核心的部分は、下に載せた吉川洋という経済学者の書いた『ケインズ』(ちくま新書)という優れた入門書にわかり易く書かれております。一人でも多くの方にご一読をおすすめしたいと思います。200ページほどの小冊子ですが、日本国民必読本と申し上げたい。テレビなどに登場するエコノミストたちのセンセーショナルな話などに惑わされることなく、「日本の経済危機」を思いながら心静かにこの本を読めば、いまわれわれは何をすればよいのかが見えて来るように思います。

◇われわれがいま為すべきことは(人によってさまざまかもしれませんが)、まずは、おいしいものを食べ、よい音楽を聴き、出来るだけ良い本を読み、面白おかしく日々を生きる、というようなことです。ビル・クリントンがあの「9.11」のあと、「野球でも見に行くのがいいと思う」と述べていたようなことです。わたくしあの一言でクリントンを見直しました。そして「政府リコール」などするのではなく(小泉内閣だってそれなりに頑張っているのだ)、政府・日銀をして「インフレ・ターゲット政策」などを採用せしめる前に、われわれ自身の力で個人消費主導の景気回復軌道をつくり出すことでしょう。

◇尚、よい音楽や良い本については当サイトの他ページをどうぞ。

【2002/05/02 JGR子】

◆補足:上の文章で、吉本隆明と加藤典洋を彼らの立論からするとどちらかと言うと枝葉末節に属する部分でさんざん「批判」しておりますが、「消費者=国民という新しい等式」の成立という、彼らの「現在」の核心的部分についての認識自体は正しいと思う。それを「新しい消費資本主義段階の到来」と言うのは勝手ですが、そう言うこと自体にはまったく意味がない。意味があるのは、好むと好まざるとにかかわらず、日本国民自身が名実ともに日本の国民経済の「主権者」になってしまったという「事実」の方です。そして「議論」に値することは、この「主権者」ということはどういうことなのかということ、そしてこの「主権」をどのように「行使」するのかということです。それについては上の文章でも少し述べておりますが、詳細は機会を改めて考えてみたいと思います。

【2002/06/11 JGR子】
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