時事・言論レビュー(3)


「不良債権処理」のおはなし
           


「不良債権処理」とは何か。まず最近の新聞から、それについて触れられているところを少し引用してみます。「経済活性化には不良債権処理を加速することが大前提である。一方で、不良債権処理はその過程で企業整理などデフレ圧力をもつ。デフレ対策抜きに、不良債権処理だけに走れば、生きた経済を傷つける恐れも出てくる。金融健全化と脱デフレ戦略を車の両輪として総合的に実行すべきなのは、このためだ」(『日本経済新聞』社説2002/10/24)。補足の意味でもうひとつ引用します。「不良債権処理の加速は経済活性化の大前提だ。金融仲介機能を再生し成長資金を経済の新陳代謝に生かすために欠かせない」(同2002/10/31)。

これが日本のマスコミによってこのところ連日のように叫ばれている「不良債権処理」についての最大公約数的な考え方であると言っていいだろうと思います。ところでこういう考え方は正しいのだろうか。あるいはそもそもこれは「考え方」と言えるようなシロモノなのだろうか。言うまでもないことと思いますが、現代のマクロ経済学の「主流」(カッコを付けたのはマスコミを中心とする日本の「経済言論」の世界ではそうであるとは言えないからです)をなすケインズ派の人々はこのような「考え方」には組しません。その理由をひとことで言うと、マクロのレベルでは「デフレ」こそが(より正確には「資産デフレ」+「デフレ」こそが)「不良債権」の原因であって、決してその逆ではないと見るからです。従って何よりもまず第一になされなければならないことはデフレを止めることであると考えるからです。つまり、『日経』社説でも言われているように「不良債権処理」が「デフレ圧力をもつ」以上、それはいまなされるべきことではないと考えるからです。デフレ下のいまではなく、インフレに移行した段階でなされるのであれば「不良債権処理」は極めて容易であるということです。

こうした考えを公然と表明しているケインズ派の経済学者としては、岩田規久男(学習院大教授)と野口旭(専修大教授)がおります。方向は少し違いますが小野善康(阪大教授)もここに入れて構わないと思います。そしてこの三人のようにはっきりとは語っていないかもしれませんが、いま日本で最も大きな影響力を持つと思われるマクロ経済学の教科書を書いている伊藤元重(東大教授)も恐らく同じ考えであろうと思われます。もっと言えば、昨年度のノーベル賞経済学者ジョゼフ・E・スティグリッツ(いま世界で最も読まれているであろうマクロ経済学の教科書の筆者)や、日本でも多くの訳書が出ている「大物」ポール・クルーグマンも基本的には同じ考えでしょう。更に言えば、アメリカの前財務長官で現ハーバード大学学長のローレンス・サマーズも多分「本音」では同様。まあインターネットの検索エンジンに「スティグリッツ」とか「クルーグマン」とかを入れていろんなサイトをチェックしてみれば彼らの考え方はすぐに分かるはずです。ともかく、これが現在の世界の「主流」の経済学の考え方であるわけです。

こういう「世界の常識」から見ると、日本のマスコミに見られるような考え方(つまり「不良債権処理」と「デフレ対策」を「車の両輪として」進めるべしとするような考え方)は「非常識」で「破壊的」な議論の典型と言えるだろうと思います(何故ならば、これでは互いが力を相殺しあって結局なにもしないのと同じ結果しか生まないからです。無内容で結局のところ責任回避のためだけの総花的議論でしかないということです)。「時事・論壇レビュー(2)」でも少し述べたように、マスコミがもっぱら「非常識」で「破壊的」なことばかりを叫び・書きたてるのは、なにもいまに始まったことではありません。「満州事変以来」どころか、恐らくは人間のコミュニケーションの発生とともに生れたであろう「噂話」だの「醜聞」だの「流言蜚語」だのをその起源としているのだろうから、それはそれでいたし方ないことなのだろうとは思います。しかもいまや、とりわけこの日本ではそれは「民主主義」を食い物にして(そして「世論」を捏造したり、またそれを人質にとったりなどして)史上最強の権力へと育ちつつある「怪物」であると考えられるわけですから、彼らに「国益」や「公益」にかなった議論を求める方がよほどどうかしている、と言うべきなのかもしれません。

しかしこういうところで戦前と同様に相も変わらず「世界の孤児」であり続けているというのは誠に嘆かわしい話です。まあ日本がドイツと並んでイラクや北朝鮮といった「悪の枢軸」など足元にも及ばない史上最も凶暴な札付きの無法者国家最有力候補だってことは「世界の常識」だと思うんですけどね。こういう言い方をするとあるいは日本のナショナリストの皆さんは「喜ぶ」かもしれませんが、これ実は「主体性」もなにもない内外の刺激に条件反射的に反応するだけの恐竜みたいな存在だと言っているわけで、まったく誉められた話ではないのです。そしてこの比類なく凶暴な恐竜の「頭脳」であり続けているのが日本のマスコミだということです。

もし「構造改革」されなければならないものがあるとすれば、まずは幕末以来の日本のこうしたクレイジーなあり方だと思うのですが、しかしこうした「主体性」を欠落させた条件反射以外のなにものでもないような「日本的意思決定システム」の研究というものは猛烈にエキサイティングで面白いものになりそうです。そしてこれは後年著者自身によって否定されたであろう(そうではありませんか?)『現代政治の思想と行動』の丸山真男の方向ではなく、ルネ・ジラールに代表・集約されるような大衆論・群衆論(『暴力と聖なるもの』ほか)の方向からなされなければならないはずです。多分そうされることをいちばん望んでいたのが後年の丸山真男自身だったと思うんですがね。違いますかね? そうではなくそういうことを望んでいるのはあの気の毒な鈴木宗男氏ですかね? しかし彼の「名誉」だけは救ってあげたいもんです。違いますか? 要するにシステムをシステムたらしめる原初の構造に手が届くような仕方でなされなければダメだということですが(そうすると日本に特有のあり方と見えるものが実は普遍的なものだということになるのですが)、ここではそういうことがテーマではないのですからこの話はこれでやめにします。

さて必ずしも「不良債権処理」だけが目的だったわけではありませんが(以前は「金融システム安定化」のためと言われていたように思う)、これまで98年と99年の二度にわたって一部を除く大手銀行に「公的資金」が投入されました。しかし結果から言えばいずれも「失敗」に終っております。だからこそ今回は金融担当大臣に新古典派経済学=反ケインズ派の竹中平蔵(慶大教授)が起用されたとも言えるわけですが、まあこれは一種の「悪い冗談」のたぐいだとしても、「火中の栗を拾う」ことを得意とする小泉首相らしい決断であったことは否定できません。そしてその竹中平蔵が木村剛という人物を引っぱり込んで(弾よけに使って?)「不良債権処理」のあり方を方向づけるというような経緯がなければ、「産業再生機構」なるものが生れることもなかったろうと考えられるわけです。この新しい機構が実際にどういうことを行なうことになるかはおくとして、「産業再生」という看板を掲げて登場したことには意味があるだろうということです。

現実の「不良債権処理」はいまこのように「進行」しておりますが、上に述べたような日本のクレイジーな風土の中では「正論」を言い続けるだけではなにも生まれない可能性が高い。日本のケインズ派の経済学者が経済政策の企画・立案・策定の「主流」から外されているのはそのためではないのか。ケインズ派と見られる経済財政諮問会議のメンバーである吉川洋(東大教授)が「正論」を吐こうとしないのはそのためなのかもしれない。といったようなわけで、そんなに「不良債権処理」がやりたいのであればひとつやってみようではないか、というような発想の転換があってもいいのではないかと考えるわけです(昭和の天皇陛下が大東亜開戦のギリギリの段階で「火中の栗を拾」われたようにです)。最近、斉藤誠(一橋大教授)が『日本経済新聞』(02/10/30)の「経済教室」に書いた「不良債権処理、展望明確に」や、竹森俊平(慶大教授)の『経済論戦は甦る』(東洋経済新報社)にはそうした意図が見え隠れしているようです。
 
斉藤誠の文章から少し引用します。「国民負担で不良債権を処理するメリットは他にもある。民間企業や特殊法人が損失を垂れ流し、国全体で資産を食いつぶしていくことに歯止めをかけられれば、問題先送りで過去十年以上にわたってずるずると続いてきた資産価格低下に区切りを付けることができる。(改行) 今が底値となれば、資本市場や不動産市場に資金が流入し、資産価格が反転する契機ともなるであろう。その意味で、不良債権処理は究極のデフレ対策といえるかもしれない。(改行) ここまで深刻になった不良債権を処理するためには、国民負担による最大・最終の損切りによって失意の時代に終止符を付け、新たな経済システムを構築していくという構想力こそが必要なのではないだろうか」。一方竹森俊平は、斉藤誠の言う「国民負担」という考え方を「(『罪と罰』の)ラスコリニコフ的発想」という風に言いかえて、大規模な「富の移転」をともなう、つまりはインフレ政策をともなう「不良債権処理」を提案しております(なにしろここ日本ではこの10年のあいだに個人の金融資産だけは着実に増大を続けているのです。現在では約1400兆円。ここから「ラスコリニコフ」や「国民負担による最大・最終の損切り」が出て来るわけです)。

いずれもケインズ派が「不良債権処理」の主導権を握ったらこうする、という方向をかなりあけすけに表明した提案であると言うことができます。前ページの「時事・言論レビュー(2)」でもわれわれに残された選択肢の中で最も手っ取り早い不況脱出の方策として、ダイナミックな所得の再分配をともなう大規模なプロジェクトの立ち上げを提案しておりますが、こうした提案がいかに「乱暴」に見えようと、このかんの「問題先送り」によってわれわれの前にある選択肢が徐々に狭まってきていることも事実なのではないか。少し大げさかつ刺激的に言えば、ABCD包囲網によってエネルギー源を止められてから戦争に立つのか、それともこちらから先制攻撃をしかけて戦いの主導権を握るのかといった局面が近づいているのかもしれない、ということです。しかし言うまでもないことですが、無数の不確定要素の中での投企的な行動とは異なる、純然たる「学問的」な思考と検証に基づく大胆な実践であるという点に、ケインズ的経済政策の戦争との根本的な違いがあります。

つけ加えますと、日本においてケインズ系統のマクロ経済学が学問以外のところで「主流」たりえない理由として、木ではなく森から見ていくという発想が日本人になじまないところがあるらしいことは以前から感じていたことですが、より第一義的にはそれが純然たる「公共性」の学問であるというところにあるような気がします。「公共性」ということが最も鋭く問われる場面は例えば戦争ですが、どうもわれわれ日本人は土壇場まで追いつめられれば目をつぶって戦争に飛び込んで「恐竜」のように勇猛かつ凶暴に戦うくせに(諦めて万歳突撃に移るのも早い)、戦争において最も重要なファクターであるはずの勝算や戦機といったものを冷静に計測して決断・コミットするということがとてつもなく不得手のように思います(上に述べたように経済政策と戦争はその遂行に当たっての行動様式を異にしますが、何よりも冷静さと大胆さを要求するという点ではとても似かよっております)。しかしこれらについては機会を改めて考えてみたいと思います。

それではまた。

【2002/11/16 JGR生】

追記:上の文章の最後の部分は何を言わんとしているのかちょっと分かりにくいかもしれませんが、端的に言いますと「公共性」というものは「乱暴」なものだということです。そこでは国家や権力というものがむき出しの形で出て来るということです。そういう意味で言えばケインズ的経済政策と戦争とはとても似ているということです。つまり「問題先送り」の最大の理由は、そういうところに手をつけると「大変なこと」になる可能性が極めて高いということで、為政者たちはそれをよく知っているということです。しかし「金融再生法」のような「乱暴」な法律が成立しているのですから、もう為政者もわれわれ「パンピー」も腹をくくっていいと思うんですけどね。

【2002/11/21 JGR生】
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