ANTI-KILLER NOVEL (3)


山ノ内のマリア (あとがき)

◇「山ノ内のマリア」という物語を書くことを思い立ったのは、今年のゴールデン・ウィークの初め頃のことだ。その日、稲村ガ崎から極楽寺へ向かう道を散歩していたら、そう言えばサザンオールスターズに「稲村ジェーン」という曲があったなと思った。で、ひょっとすると「ジェーン」がまだその辺りに住んでいるかもしれないと思ってあたりを見まわしてみたが、もちろんそれらしい女性は見当たらなかった。まあ桑田佳祐が鎌倉学園に通っていた頃の話なのだろうから、「ジェーン」がまだそこにいるとしても、いまは40代後半かもしれないわけだ。そんなことを考えていたら、俺の場合は「山ノ内のマリア」という物語になるなと思った。タイトルが決まったら書き出しのフレーズもすぐに出て来た。こうして「山ノ内のマリア」という物語が書き始められたわけだが、物語を造型して行くという行き方ではなく、記憶をたぐって行ってそれを理解して行くという方針も固まった。理解され和解されなければならないようなことがその主題をめぐってたしかにあるように思われた。

◇それはいまから35年から40年も昔の物語であるわけだが、そこから2004年の現在までほぼ一直線につながっている。現在が60年代の出来事(の帰結)を起点にしていることは明らかだが、その時期はまたひとつの時代の終りを画した時期でもあった。日本の社会にも「習俗と伝統」(モンテスキュー/アーレント)というものがたしかに存在したが、それが最終的に失われたのは60年代の高度経済成長と68年反乱を通じてだった。従って当初は、当時まだ完全には失われていなかった「習俗と伝統」を再構成しながら、それがどのように失われたかを理解することが目指された。しかし、それは幼年期の記憶を歴史的知識とつけ合わせるという作業が不可欠であったため放棄するしかなかった。日本の伝統社会というものが理解されるにはそれなりの知識が要求される。しかし網野善彦の日本の社会文化史さえそれまでまともに読んでいなかった。そういうわけで、第8回あたりからはもっぱら現在へとつながる出来事に重点がおかれることになった。

◇伝統社会的なものの記述の放棄が第一の方針転換だったとすると、「マリア」についての記述の切りつめが第二の方針転換となった。本当のところ「マリア」についてよく分かっていないことは当初から自覚していた。しかしそれは理解することへの意識性によって超えられるだろうと考えていたのが、そうではないことが次第に分かって来た。言葉にし難い人間の佇まいや関係性などを表現するにはモーツァルトやレノン/マッカートニーや桑田佳祐のような特別の才能を必要とする。それを言葉で語ることができないわけはないだろうと思っていたのだが、今回は断念するのが賢明と思われた。そうしないと話が進まなくなるし、言葉にし難いものを書ける見通しがあるわけでもない。そういうわけで「ぼく」の内面史の部分的な参照軸としてのみ「マリア」を活かすことにせざるをえなくなった。しかしそこまで切りつめてさえ「マリア」をめぐる記述が成功しているとは言い難い。看板倒れ、期待はずれと言われても仕方がない結果になってしまったと思う。

◇方針転換の第三は、この物語を「ぼく」をめぐる60年代音楽と青少年たちの内面形成と世界形成の物語へと限定したことだ。そのうえ使用概念から記述方法に至るまでハンナ・アーレントに全面的に依拠することになった。ここで失敗していたらこの物語は一文の値打ちもないことになるが、そうした試行錯誤によって60年代の深層構造と動力学の理解、及びアーレント的思考の可能性に何かを付け加えることが目指されることになった。アーレントを歴史家と呼ぶ人はいないかもしれないが、「既知のもの」を「未知のもの」の方へと変換して行こうという(エッセイ「理解と政治」などに表明されている)アーレント的構想力によって歴史は人間事象としての意味を持ちうる。この物語で使われた内面形成⇒法的人格形成⇒世界形成という枠組みによって、これまで見えなかった出来事に多少は光を当てられたかもしれない。初期ビートルズの"声"をめぐる第24回以降の記述によって、60年代的ダイナミズムの内的動因が少しは可視的になったかもしれない。

◇この物語は現在へ向かって開かれていると確信しているが、同時に過去へと遡行して行くベクトルも内包していると思う。この物語を導いて来たものは、言葉にし難いだけでなく記憶としても意識化されにくい過去の「暗がり」が放つ強烈な磁力だ。それがどれほど抗い難いものであるかを、実家がある北鎌倉から東京へ戻って来るたびに経験する。横須賀線が昔通っていた学校がある大船駅に停車するたびに、一種の動物的な痛みに襲われる。さすがに閉まろうとするドアから飛び出すようなことはなくなったが、依然として自分が動物的な存在でしかないことを思い知らされる。そういう衝動は人間の根源的な動力ではあっても、人間にとって極めて理解し難いものであり、従って物語とはなりにくい部分なのかもしれない。この物語では初期ビートルズの"声"がそういう「暗がり」からわれわれを法と世界の明るみへ導いたと述べているが、実はそれは物語の反面でしかないのではないか? あるいはこれが「啓蒙の弁証法」と言われるものなのか?

◇もちろんここに述べたことは、「啓蒙の弁証法」と言うよりも、むしろユーミンが「最後の春休み」(『OLIVE』収録)で歌ったような、成長期の内面がそこにおいて安らっていた慣れ親しみの世界が持つ抗し難い魔力とか魅惑に近い。文明の野蛮化という意味での「啓蒙の弁証法」(ホルクハイマー/アドルノ)にわれわれがさらされるのは、われわれがもはや法的な主体ではなくなり、世界形成へと向かう手掛り足掛かりを失った70年代以降のことだ。世界形成志向は経済的関心に取って代わり、われわれは生物学的再生産や生産と消費の終りのない循環という自動運動へと巻き込まれて行く。世界形成志向の終焉は政府機能においてもひとつの反映を見ることになり、政治の経済コントロール機能を放擲してしまうような経済的関心への屈服、つまり新自由主義的な志向(=反政治)を生み出して行く。自民党などの既成政党や政府機構のこの変質もまた、失われた「習俗と伝統」に代わりうるものをわれわれが創り出しえなかったことの帰結と言える。

◇当時の青少年たちの法的抗争と世界形成志向を短期間にせよ牽引したように思われた60年代新左翼とそのイデオロギーの末路については語るまでもない。72年の連合赤軍事件を境にして彼らは世界から全面的に撤退して行く。教条的マルクス主義を放棄して、地方民主党への加入戦術でも採らないかぎり、彼らが世界形成を担うことは二度とないだろう。60年代音楽については、ボブ・ディランがオートバイ事故を起こして隠遁生活に入り(66)、H=D=Hがモータウンを離れた(67)時点で終焉を告げられていた。ほぼ同時期にビートルズも世界からスタジオ・ワークと私的生活へと引きこもってしまった。そういう意味ではアメリカの60年代反乱は創造的な試みが終ったところから始まった絶望的な行動への突出だったと言えるかもしれない。日本の事情がそれとは少し違うものであったことは物語本編で述べた通りだ。もちろん、60年代反乱の最終的な顛末はアメリカも日本もほとんど違いはない。ヨーロッパなどその他の地域の場合も同様だ。

◇ひとつ補足しておくと、上に述べた大船駅における動物的なパニックというのは、昔通っていた学校がそこにあることによっているだけではない。多分それは大船駅が三浦半島の出口(あるいは入口)に当たっていることと関係がある。大船から横須賀や三崎にかけての一帯は緑深い山と谷戸(やと)と海岸からなっており、基本的に関東平野とは地形・景観を異にする。このことが大船から(あるいは金沢八景から)逗子、横須賀方面に住む住人に独特の気質を与えているのではないかと考えられる。少し前に、三浦半島にあるトンネルばかりを撮っているその地域の住人たちからなる写真愛好会の代表が書いた文章が『日経』の文化面に載っていたのを読んで、やっぱりそうなのかと思った。つまりトンネルというのはあなぐら、即ち動物や原始人の棲み家であって、要するに「暗がり」そのものでもあるということだ。鎌倉在住の作家、保坂和志が稲村ガ崎を舞台にした小説『季節の記憶』を書いたのも、それと同様の「暗がり」気質によるものと思われる。

【2004/10/07改稿 AK】

山ノ内のマリア (第26回/最終回)

◇前回の終わりの方で示唆したように、シュープリームスの「愛はどこへ行ったの」は64年7月の新公民権法成立と、そしてアレサ・フランクリンの「リスペクト」は67年7月のニューアークとデトロイトにおける「史上最大の黒人暴動」と、それぞれ結びついていたと考えられる。この公民権から蜂起へという目が眩むような展開、そして音楽と政治過程の密接な結びつきは、初期ビートルズの"声"とメッセージが生み出した歴史過程のひとつの帰結と言える。前回述べたようにアメリカの若者文化が"ビートルズ化"したとは言っても、それは主として白人の青少年たちの場合であって、アメリカ黒人の文化が"ビートルズ化"したとは言いがたい。アメリカ黒人の青少年たちの"ビートルズ化"は「ザ・サウンド・オブ・ヤング・アメリカ」即ちモータウンの爆発と快進撃という形をとったというのが当時からのぼくの理解だった。しかもアメリカ白人の若者文化の場合とは違って、「ザ・サウンド・オブ・ヤング・アメリカ」とソウル・ミュージックはアメリカ黒人のメイン・カルチャーだった。

◇ビートルズやシュープリームスを中心とする60年代音楽は60年代文化のメイン・ストリームをなした。日本における66年6月のビートルズ来日騒動は、文化のヘゲモニーをめぐる決戦場の様相を見せた。日本においてそれは痛み分けのような形で終わったが、アメリカにおいてはある時点からビートルズはメイン・カルチャーではなくカウンター・カルチャーのシンボルのような存在になった。しかしアメリカの黒人社会においてはそういう無意味な屈折は見られなかった。それ故にアメリカ黒人は道義的にも優位に立つことができたと思われる。新左翼のセクシー・クイーン、バーナディーン・ドーンを中心とするウェザーマンがマオイズムやホーチミン礼讃に走ったのは、"裏口"から黒人革命の道義的優位性と一体化したかったからだろう。しかしアメリカ白人新左翼の奇妙な敗北主義の故に、アメリカの60年代反乱はあっさりと潰え去った。カウンター・カルチャーとウェザーマンはメダルの両面だった。しかもそれはアメリカ(独立)革命の必然的な帰結でもあった。

◇シカゴ大学法学部の学生だったバーナディーン・ドーン(Bernadine Dohrn)は、マーチン・ルーサー・キングの法律担当秘書つまり公民権派の活動家としてキャリアをスタートさせ、のちに"戦争派"の論客・指導者へと転じたアメリカ白人新左翼を象徴する女性活動家だった。しかし66年に組織を発足させたアメリカ黒人の蜂起派、ブラック・パンサー党とその民兵組織は、白人新左翼とはほとんど無関係に最後までFBI、CIA、ペンタゴンの心胆を寒からしめた。兄弟愛を重んじ、豪胆であることを誇りにした彼らのギャング的精神はマルコムXゆずりだった。白人新左翼はそうした黒人革命派に見捨てられたまま自壊への道をたどったと言える。マリファナやLSDやヒッピー的ドロップ・アウトに幻想をいだいているようではそもそも"戦力"にならないし、白人たちはアメリカそのものに銃口を向けることはもとより、新しい始まりを独力で創り出すことになぜか消極的だった。黒人奴隷制度を所与としたアメリカ革命が超えられないかぎり、アメリカに未来はないかもしれない。

◇アメリカの白人青少年たちはビートルズの受容と法的人格の形成においてどこかで失敗したと思われる。もちろん日本の青少年たちのビートルズ受容もかなり混乱したものだった。キャーキャー騒ぐ女子中心のビートルマニアと寡黙で孤独な男子中心のビートルズ・ファンの分裂、あるいは並存という事態ははじめから見られた。しかし幸いなことに(?)いちばん最後にやって来たぼくの年代のビートルズ・ファンは男も女も概して寡黙で孤独なひとびとだった。そのひとつの事例としてあの財閥の創業者一族と同じ名前を持つ少年について少し語っておこう。ぼくが小学校を卒業してから再び彼の家に遊びに行くようになったのは、中2から中3に進んだ春頃からだった。彼はぼくと話をしたりビートルズのレコードに合わせてエレキ・ギターの練習をしたりしている時以外はよく勉強をしていた。中高一貫校に通っていたぼくとは違って高校受験を控えていたわけだからそれも当然だったのだろうが、それほど努力をした風もなく神奈川県立の名門高校へと進んだ。

◇彼は東大の入試が中止になった年にも、その余波でかなりの難関となった一流私大の理工学部に一発で合格した。小学6年の時はぼくが中学受験を控えていたから彼よりも成績は上だったが、算数については受験勉強などしていない彼にいつも脅かされていた。2学期の算数の成績は彼の方が上だった。その当時ぼくは戸塚にあった進学塾にも通っており、そこでもトップ・クラスに入っていたから、ろくに勉強をしていない田舎の小学校のクラスメートに一科目だけ一回だけであってもトップを奪われたことが信じられなかった。しかし生まれつき頭のいい人間というのはどこにでもいるもので、彼がまさにそれだった。そうした事情にもかかわらずわれわれは友達だったわけだが、中学時代の彼はぼくがビートルズ・ファンになるとは思ってもいなかったらしい。彼は実にクールな少年で、お前みたいに頭の固いヤツでもビートルズが分かるんだ、というような顔をいつもしていた。彼とぼくはビートルズの新しいアルバムが出るごとにその評価で意見が別れた。

◇66年の10月に『リボルバー』が日本発売になった時も彼の家でそれを聴いた。彼はビートルズが変わったことを認めたが、ぼくがビートルズはもう終わりだなという意味のことを言うと、彼はほっとしたような顔をしていた。ぼくのような文科系の理屈っぽい人間がビートルズから離れて行くことは、彼にとっては喜ばしいことだったのかもしれない。ぼくの年代のビートルズ・ファンにはそういうところがあった。前に触れた由比ガ浜に住む少女にしても、ぼくがビートルズに関心がないらしいと思ったからこそ、ビートルズと「オール・マイ・ラヴィング」の素晴らしさをぼくに向かってまくし立てたのではなかったかと思われる。ぼくがビートルズ・ファンになってから彼女に会っていたら、意見の対立から口論になっていたかもしれない。ぼくとあの小学校時代の友達が意見の違いにもかかわらずそういうことがなかったのは彼の優しさの故だろう。彼ら彼女らはそれぞれの仕方でそれぞれのビートルズを内面化していた。彼ら彼女らは不思議なほど孤独だった。

◇第16回で触れた小学校時代からのあの不良っぽい友達もビートルズ・ファンだったはずだが、彼とビートルズについて何か話をしたという記憶もない。ぼくが知っている65年頃のビートルズをめぐる状況はそういうものだった。アメリカに見られたような若者文化の"ビートルズ化"などぼくの知るかぎりどこにも見られなかった。だが、それだけに日本の青少年たちにとってのビートルズの音楽というのは"重い"ものであったらしい。ぼくが通っていた中学高校の同学年にもビートルズのファンはいたが、熱心なビートルズ・ファンほど自分自身のビートルズをひとりでかかえ込んでいた。彼らは何故かビートルズについて語ることを避けているように見えた。ビートルズについて語ることで彼らのビートルズが失われるのを恐れているかのようだった。表面的にはビートルズはそれほど重いメッセージを歌っていたわけではないから、彼らの態度は恐ろしく奇妙でもあった。しかし、それはビートルズの音楽に対するにはまことに相応しい態度と言うべきだった。

◇これがビートルズの音楽をめぐるぼくの原風景だ。それはまたこの物語の原風景でもある。それは戦後日本がまだ後進国(純債務国)だった時期のひとびとの内面形成と法的主体形成と世界形成についての物語でもあるわけだが、その時期は同時に高度経済成長の時代でもあった。伝統社会的な内面形成モデルはその時期にほぼ失われようとしていた。そこに登場して来たのがビートルズだった。ビートルズの"声"は未聞の新しさと抗しがたい真正さを持っていた。「君はいまひとりで生きているが、しかし君は決してひとりぼっちではない」あるいは「ひとびとが対等に出会う場所が存在する」と理解しうるメッセージがここに言うビートルズの"声"の新しさと真正さの内容だ。日本の青少年たちが寡黙かつ孤独にビートルズの音楽に対したのは、ビートルズが必ずしも明示的にそのことを歌ったわけではなかったことにもよっていた。だが、それを深く内面化することで彼らはみずからの幼年期の「暗がり」を脱して、法的人格として世界へ参与して行こうとしていた。

◇財閥の創業者一族と同じ名前を持つ少年の家は山ノ内の大船方面のはずれにあった。われわれが通っていた小学校は彼の家から歩いて5分ぐらいのところにあった。だから彼の家がある辺りはぼくにとっては子供の頃からの慣れ親しみの世界だった。彼の家の裏手にある小川も、その向かい側にあって小川を覆っていた落葉樹の大木も、ぼくにとっては親しいものだった。ぼくは中学に入ってからは成績が悪く、仲のいい友達もいなかったが、ビートルズを通じて人間存在のあり方を知ってようやく自分が通う学校を自分の世界として受け入れることができた。ぼくがマリアと"改めて"出会ったのもそれからしばらくあとのことだ。ぼくが中3の頃に接した友人たちを包んでいた不思議なほど寡黙で孤独な気分は、われわれと時代の成長段階に見合ったものだった。東京オリンピック(64)とビートルズ来日(66)に挟まれたその年は別の意味でも谷間のような年だった。しかし、あのスペシャルな日本の60年代後半がこの地点から始まったことは疑えない。

【2004/09/27改稿 AK】

山ノ内のマリア (第25回)

◇前回は初期ビートルズの"声"とそれをめぐる日本の青少年たちについての話をしたが、それと同じようなことが中期や後期のビートルズをめぐってもあったのだろうか? 中期のビートルズは楽曲で言えば「ミッシェル」や「ガール」、アルバムで言えば『ラバー・ソウル』(1965/日本発売は1966)をもって始まったと言えるが、それはアメリカにおいてはフラワー・ムーヴメントやカウンター・カルチャーが隆盛に向かう時期と重なっていた。そうすると、ビートルズの真の傑作はその時期に生まれたのではないかと思われそうだが、本当のところは少し違う。むしろその時期はアメリカの若者文化が"ビートルズ化"した時期にほかならず、現実のビートルズの方はそれに追随する姿勢を見せていた。初期ビートルズの"声"を知っているわれわれとしては、そのことは理解はできても「ビートルズらしくないぞ」と思わないわけには行かなかった。現にアルバム『リボルバー』(1966)がリリースされるに及んで、初期のファンの一部はビートルズから離れて行った。

◇実を言うとぼくの反応もそれに近かった。当時はよく分かっていなかったのだが、63〜65年頃のビートルズは世界で最も騒々しい音楽をやる地上最強のライヴ・バンドだった。しかしそういうビートルズ本来の音楽的肉体性はアルバム『ヘルプ』(1965)の頃から後退し始めていた。だからぼくの場合ぎりぎり最後のところでビートルズの音楽的肉体性に立ち合うことができたとも言える。ぼくが遂にビートルズの"声"に説得されたのは、日本で『ヘルプ』がリリースされる(65/9/15)直前のことだった。ただ、ぼくの場合ビートルズの音楽の騒々しい肉体性をひとまず"カッコに入れて"ビートルズ・ファンになったという面があったから、65年秋に大ヒットした「イエスタデイ」を歓迎した。しかしもちろんそれがビートルズの脱肉体派宣言になろうとは当時は想像もしていなかった。言うまでもなく初期ビートルズのあの"声"は彼らの音楽的肉体性と結びついていた。従って彼らが肉体性を離れるということは、あの「出会いと約束の音楽」を離れることでもあった。

◇もちろんこうしたことは直線的に起きたわけではない。ビートルズほどのスーパースター・グループが66年8月までライヴ活動を続けていたことの方に驚くべきなのかもしれない。このことを見れば彼らもぎりぎりまで音楽的肉体性に執着していたことが分かる。しかし「イエスタデイ」や「ミッシェル」や「ガール」のような音楽はライヴで演奏されることを前提していない。つまりまずは音楽において彼らはあの"声"と肉体性から離れたと見られる。しかし、そうであるとすると初期のビートルズと中期以降のビートルズとは別の存在と考えた方が自然ではないのか? あの革命的な「出会いと約束の音楽」は65年のある時点で終わっていたと考えるべきではないのか? たしかにそういうことは『ラバー・ソウル』まではよく分からなかったが、『リボルバー』の登場をもって日本のビートルズ・ファンにもほぼ理解されたと言える。同じ頃にボブ・ディランは例のオートバイ事故を起こして隠遁生活に入っているが、ボブ・ディランの方はなんだか確信犯めいていた。

◇上にも述べたようにアメリカでは大衆文化の方が"ビートルズ化"したわけだが、しかしそれは意匠・風俗にすぎなかった。「ひとびとが対等に出会う場所が存在する」という初期ビートルズの真に恐るべきメッセージが忘れられたわけではないが、それを幻想的に実現しようとしたのがカウンター・カルチャーだった。幻想的にという意味は、例えばLSDなどのドラッグによって、あるいはヒッピー的生活へとドロップ・アウトすることで"革命"に近づこうとする行き方のことを指す。ボブ・ディランはそうした行き方が文字通り幻想にすぎないことをよく理解していたと思う。だからぼくなどはあのオートバイ事故は狂言ではないかと疑っていたが、案の定カム・バックしたボブ・ディランはカントリー・ミュージックへとシフトして行こうとしていた。いずれにせよ、初期ビートルズのメッセージの継承をめぐる2年近い混迷は、67年夏のニューアークとデトロイトにおける黒人暴動、そして新左翼学生による67年10月のオークランド蜂起をもって次の段階へと移って行った。

◇2年近い混迷と言っても、66年から67年にかけての米英が音楽的不毛状態にあったわけではない。むしろ逆だ。初期ビートルズの野蛮なまでにむき出しの革命性(出会いと約束への欲望)は、その時期により"洗練"された音楽文化として開花した。バーズ、サイモン&ガーファンクル、ママス&パパス、ラヴィン・スプーンフル、ローリング・ストーンズ、ポール・リヴィア&ザ・レイダース、アソシエーション、ドノヴァン、モンキーズ、ヤング・ラスカルズ、ドアーズなどの名前を挙げれば充分だろう。前にも何度か触れたが、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが発掘したサークルの「レッド・ラバー・ボール」も忘れがたい。もちろん中期のビートルズも「ペニー・レイン」を始めとする名曲を大ヒットさせていた。しかし、初期ビートルズのあの"声"をこの時期に最も高いレベルで継承していたのは、エディ・ホランド、ラモント・ドジャー、ブライアン・ホランドという最強のソング・ライター兼プロダクション・チームにサポートされたシュープリームスだったろう。

◇ビートルズの場合と同様、ぼくがシュープリームスの音楽と出会ったのはぼくが中2から中3に進んだあの春休みのことで、財閥の創業者一族と同じ名前を持つ小学校時代の友達の家においてだった。彼の家にあったシュープリームスのレコードは「愛はどこへ行ったの」と「ベイビー・ラヴ」を含む初期のヒット曲を収めた4曲入りの7"EPだった。他の2曲は「恋のキラキラ星」と「ラン・ラン・ラン」だったと思う。ジャケットの絵柄は彼女たちのファースト・アルバムと同じだった。それにしても「ベイビー・ラヴ」が全米No.1ヒットになったのが前年の10-11月だったわけだから、その時期にそういうEP盤が日本で出ていたのは驚くに値する。ともかく、シュープリームスの「愛はどこへ行ったの」にぼくは一発で魅了された。手拍子と足拍子で始まるイントロからイン・テンポで最後まで押し通す音楽の構造をすごいと思った。ダイアナ・ロスの静かな入りも最高だし、全体を通してのクールな歌唱、「ベイビー・ベイビー」というメアリーとフローのコーラスも実にチャーミングだった。

◇もちろん「ベイビー・ラヴ」も素晴らしかった。その友達はどういうわけかそのあとのシュープリームスのレコードを買っていなかったから、以後ぼくはシュープリームスのヒット曲をほとんどラジオで聴いて行ったことになる。と言うことは65〜67年のモータウンの黄金時代をリアルタイムで追っていたことになるわけで、当然フォー・トップス、テンプテーションズ、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ、スティーヴィ・ワンダー、ジミー・ラフィンなどもシュープリームスと並行して聴いて行った。とは言え、その時期のR&B系ポップスの中心に君臨していたのは何と言ってもシュープリームスだった。「ストップ! イン・ザ・ネーム・オブ・ラヴ」(65)、「ひとりぼっちのシンフォニー」(65)、「恋はあせらず」(66)に代表される永遠のポップス名曲は、ダイアナたちの歌を抜きにしてはありえなかった。シュープリームスはアメリカ・日本・世界の青少年たちの恋人みたいなものだった。ぼくもそうだったが、彼らはダイアナ・ロスの声と歌に恋をしているようなところがあった。

◇60年代半ば頃のダイアナたちの声を聴いて恋心をかき立てられない少年というのは考えにくいが、もちろんそれはダイアナたちが黒人の女の子だったことと関係がある。それからシュープリームスの歌のほとんどが濃密で切実な恋の歌だったことも見逃せない。そういう少女の恋をダイアナの声で歌われたら、ティーンエイジャーの男たちはまず抵抗できない。ソング・ライター兼プロダクション・チームのH=D=Hがはっきり意識してそういう音楽を造ったことは間違いない。ということは、ぼくと君のあいだ、彼女と君のあいだ、要するにひととひとのあいだに合意と約束を打ち立てようとした初期ビートルズの音楽から後退しているという印象は否めない。しかしそれは男と女、あるいは白人と黒人の世界への構えの違いによっていたのではないか? 現にアメリカで新公民権法が成立したのは64年7月だった。「愛はどこへ行ったの」が全米No.1になったのはその翌月であり、シュープリームスと初期ビートルズを歌詞のレベルで比較するのは無謀でもある。

◇シュープリームスとH=D=Hが音楽的に頂点を極めたのは66年9月に彼女たちの7曲目の全米No.1ヒットとなった「恋はあせらず」においてだった。以後彼女たちは徐々に下降線をたどって行く。シュープリームスに代わってR&Bポップス、と言うより新しく生まれて来たソウル・ミュージックの頂点に君臨したのがアレサ・フランクリンだった。彼女の最初のビッグ・ヒットは「リスペクト」で、67年6月に2週にわたって全米No.1を記録した。そして翌7月にニューアークとデトロイトで「史上最大の黒人暴動」が発生した。モータウンの街デトロイトは炎に包まれ、州兵では対応し切れず4500名の陸軍空挺部隊が鎮圧に出動した。人間が狙い撃ちされた。新公民権法成立からわずか3年後のことだ。まさにベトナム戦争がアメリカ国内へと「ブローバック」して来た格好だった。この時期の空気をアレサ・フランクリンは黒人の側からほとんど完璧に歌い切った。だが、ここにおいてあの初期ビートルズの革命的なメッセージが実現したと言えるのだろうか? (続く)

【2004/09/18 AK】

山ノ内のマリア (第24回)

◇この物語の第16回目で「ビートルズはリトル・リチャードの曲はいくつもカバーしているのにレイ・チャールズの曲はカバーしていない」と述べたが、それは正しいのか? たしかにオリジナル・アルバムで聴いていたかぎりでは正しいと言える。しかし、『ライヴ・アット・ザ・BBC』(1994)や『アンソロジー』(1995)が聴けるようになったいまでは正しくない。前者に収録されているジョン・レノンがリード・ボーカルをとる「アイ・ガット・ア・ウーマン」(63/7/16録音)、そしてクオリーメン時代の作品ながら後者(『アンソロジー1』)収録のポール・マッカートニーがリード・ボーカルをとる「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」(60録音)の2曲はまぎれもないレイ・チャールズ初期の傑作だからだ。こういうことはできればこの連載の読者に指摘して欲しかったが、まあ仕方ないか。ともあれ、初期ビートルズがレイ・チャールズの音楽の核心的部分の継承者に違いないという中3の頃のぼくの直感は、これらのカバー曲の存在によっても証明されているように思われる。

◇前にも述べたように、ぼくがビートルズを初めてちゃんと聴いたのは、ぼくが中2から中3に進んだ春休みのことで、財閥の創業者一族と同じ名前を持つ小学校時代の友達の家においてだった。では、そのビートルズの音楽がぼく自身の音楽となったのはいつのことだったのか? 言い替えれば、ビートルズの音楽がぼく自身の内面と不可分のものとして意識されたのはいつのことだったのか? いまとなってはその日付を特定することはまず不可能だが、恐らくその春休みから夏休みにかけて(つまり65年の春から夏にかけて)のある日のことで、やはりあの小学生時代の友達の家でビートルズのシングル盤「涙の乗車券」のB面に収録されていた「イエス・イット・イズ」を聴いた時だったと思う。当時のビートルズの曲で「イエス・イット・イズ」と同じタイプの曲としては「抱きしめたい」のB面に収められていた「こいつ(ディス・ボーイ)」が挙げられる。しかし「抱きしめたい」のインパクトが強すぎたせいか、「ディス・ボーイ」についてのその当時の記憶がまったくない。

◇「抱きしめたい」に比べると「涙の乗車券」はインパクトという点ではかなり弱かったとは言えるだろう。そういう事情もあって「イエス・イット・イズ」はA面よりも遥かにしみる曲としてぼくの心に刻まれたらしい。実際「イエス・イット・イズ」は比類のない静謐さを湛えた名曲だった。ジョージ・ハリスンのリード・ギターに使われていたボリューム・ペダルにびっくりしたし(最初はオルガンかと思った)、コーラスの厚さと美しさに圧倒されたし、ジョン・レノンのザラザラした声と音楽の静謐さとのミスマッチぶりも強烈だった。「イエス・イット・イズ」に続いて出会ったのが第1回目に述べたポール・マッカートニーの歌う「オール・マイ・ラヴィング」だった。この曲は当初由比ガ浜に住むあの少女の存在と不可分だったが、次第にそういう限定を超えた名曲としてぼくの内面に明確な位置を得た。恐らくこの頃に、信じられないほど魅力的なのに喧騒ぶりも負けず劣らず猛烈だと感じられていた「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」の"声"が遂にぼくの内面に届いたらしい。

◇そう、正確に言えばそれは具体的なメッセージと言うよりもむしろ"声"だった。それはまずポールの声であり、ジョンの声であり、あるいはそれ以上にポール、ジョン、ジョージによる3声のハーモニーだった。ぼくはそこに或る"約束"のようなものを聴いたのだと思う。それをあえて言葉にすると、「君はいまひとりで生きているが、しかし君は決してひとりぼっちではない」というメッセージになるのだろうが、それが何よりも未聞の声であったが故にぼくの内面にストレートに届いたのだと思う。そしてビートルズの声はレコードやラジオを通じて、当時ぼくと同じような境遇と成長段階にあった者たちすべてに届いているはずだと信じることができた。実際、財閥の創業者一族と同じ名前を持つ少年も、彼の家の近くに住む小学校時代からの不良っぽい友達も、由比ガ浜に住んでいた少女も、それぞれにビートルズの声を聴いて14、5才の自分自身の生を歩もうとしていた。そういう意味でわれわれを結びつけていたのは、ビートルズのあの声だったと言うことができる。

◇その当時ぼくはかなり熱心なボブ・ディランのファンになりつつあったが、それはぼくの特殊な気質に見合った好みであることは自覚していた。ぼくは彼らにボブ・ディランを聴くことを勧めたりはしなかった。ボブ・ディランの声はぼくには届いても、ぼくの友人たちにも同じように届くとは思っていなかった。しかしビートルズの声の浸透力には一種の普遍性のようなものがあった。ビートルズの声を聴いた者すべてが遅かれ早かれ理解するに違いないような何かがそこにはあった。しかしあとで理解したことだが、そのビートルズの声の浸透力を当時ほとんど抵抗なく積極的に受け入れたのはかなり狭い年齢層だったようで、ぼくより2つ年上のサンディ・スチュワートの年代を中心とする当時14、5才から18、19才の世代だったように思われる。ひとがみずからの単独性(ひとりであること)をはっきりと自覚するのはその年代なのだからそれは当然なのだろうが、その数年後の68年反乱の主力をなした年代から逆算してもそういうことは言えそうだ。

◇ところで初期ビートルズは何故あれほどひとびとの出会いと約束ばかりを歌ったのだろうか? 言い替えれば、初期ビートルズが「アイ」(「抱きしめたい I Want To Hold Your Hand」、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」)や「ミー」(「ラヴ・ミー・ドゥ」、「プリーズ・プリーズ・ミー」)や「ユー」(「フロム・ミー・トゥ・ユー」、「アイル・ゲット・ユー」)や「シー/ハー」(「シー・ラヴズ・ユー」、「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」)ばかりを歌ったのは何故なのか? しかも初期ビートルズにおいては各人の単独性が自覚されながら、むしろそれぞれが出会い・承認し・約束し合う場所や空間の方が中心をなしていた。場所や空間は彼らの歌詞においてはダンス・パーティーだったりするわけだが、われわれにとってはビートルズの声がそれだった。彼らの声(と歌と音楽)こそがそこでひとびとが出会い・承認し・合意し合う約束された場所であり空間だった。要するに初期ビートルズの音楽は「出会いと約束の音楽」にほかならなかった。しかもそれはわれわれに向かって開かれていた。「オール・マイ・ラヴィング」に聴かれるように、初期ビートルズにおいては別離さえも約束の言葉で歌われていた。

◇たしかに60年代後半はとりわけスペシャルな時代だったわけだが、それはこうした初期ビートルズの音楽、そしてそれがわれわれにかいま見せた「出会いと約束の空間」というイメージを抜きにしては考えることもできないほどだ。ボブ・ディランやPPMやビーチ・ボーイズやキンクスがどれほど卓越した声(と歌と音楽)の持ち主であったにしても、初期ビートルズがわれわれに見せたような"奇跡"をもたらすほどの力を持つことはなかったと思う。63年頃のPPMはある意味では初期ビートルズの先駆けをなしたと言えるかもしれないが、われわれのすべてを根こそぎさらって行くほどの力は持っていなかった。しかも初期ビートルズの声の比類なさは、それに関心を持たない者に対しても抗し難い力をふるった点にあったのではないか? 映画『ヤア! ヤア! ヤア!』や『4人はアイドル』を観てキャーキャー叫ぶ少女たちより、そういう騒ぎを馬鹿じゃないかと思っていた者たちにこそあのイメージは届いていたのではないか? たしかにぼく自身有楽町の映画館で「女たちは少し静かにできないのか」と思いながら『4人はアイドル』を観ていた。65年のクリスマス頃のことだ。

◇それにしても初期ビートルズの声がそれ自体で"奇跡"でありえたのは何故か? そもそも声や歌や音楽がそれ自体でそれほどの力をふるうことができるのか? 言うまでもないことかもしれないが、自足した伝統社会の住民にはひとの単独性やその出会い・合意・約束の空間というようなことが特別の意味を持つとは思えない。初期ビートルズの声とメッセージが"奇跡"でありえたのは、日本においては64〜65年という時期にかぎられていた。それは伝統社会的なものが社会の表層から姿を消し、それに代わって市民社会化が急速に進んだ時期とほぼ重なっていた。更には、旧来のすべての価値観からの解放を促進したあの"革命的"な大衆文化が日本に生まれようとしていた時期とも重なっていた。それらが70年代的なアモルフな大衆社会化へと進むのではなく、まずは青少年たちの合意と約束へと、つまりあの脳天気な軽い気分の形成へと進んだのは、初期ビートルズの声とメッセージが彼らを捉えていたからではないのか? もちろんそうとしか考えようがない。68年の"祭り"を準備したものは、われわれを原子化された個人へではなく、合意と約束にもとづく法的な主体へと導いた初期ビートルズの声とメッセージ以外のなにものでもなかったということだ。(続く)

【2004/09/15 AK】

山ノ内のマリア (第23回)

◇ぼくはこの物語の第5回目でハンナ・アーレントのことを「同類」と呼んだが、前回の末尾に述べたようにアーレントのクレイジーさはまったく比類がない。57才にもなる功成り名遂げた20世紀を代表する政治思想家が、アイヒマンの滑稽さとユダヤ人同胞の受難物語をただ笑い倒したいがために、『イェルサレムのアイヒマン』を書く必要があったのか? もちろん彼女がそれを書いた動機がそれだけであったはずはないが、笑いたい時には断じて笑うべしとする欲望が彼女をとらえた可能性は否定できない。アーレントは「正義は為されよ、たとえ世界が滅ぶとも」という格言を好んで引用するが、彼女の"原理主義"は笑うことを許容しない世界(イスラエル?)は滅びても構わないと信じていたかのようだ。こうして身をもって自由であることを敢行したハンナ・アーレントはたしかに「同類」には違いないが、ぼくの場合そういう"原理主義"とはあまり縁がなかった。当時のぼくに格言のようなものがあったとすれば、「楽しくなければ意味がない」というものだった。

◇この"楽しい政治"への志向はあの軽い脳天気な気分の延長上にある。第12回で述べたマルクスの『経済学批判序説』の一節を言い換えた「やってみなければ何も始まらない」や「やってみなければ何も分からない」は政治的行為に脳天気な軽やかさを求めたものだった。ぼくはレーニンの『何をなすべきか』や『国家と革命』の楽しい読みも試みたが、流石にこれはうまく行かなかった。ところでこうした"楽しい政治"への志向に逆行していたのが東大全共闘などが言い出した「自己否定」だった。こればかりはどうにも許容し難い発想と感じられたが、なかなか言語化することができなかった。しかしこれについても、「良心は世界に関心がない」、「良心は非政治的である」、「良心は個人の自己とその誠実さのために震えおののく」といったハンナ・アーレントのエッセイ「市民的不服従」の記述によって理解されうる。要するにそれは最近のアーレンティアンたちが批判する「アイデンティティーの政治」や「本質主義」の端的な現われにほかならなかったと思われる。

◇前回も少し述べたように、この物語の「ぼく」という存在は60年代のあの合意(約束)の人格的な現われにほかならない。従って「ぼく」が「ぼく」と言いうる存在になった瞬間に「ぼく」は「法的人格」になったとも言える。これが60年代に特有の現象だったのか、それともすべての時代においてひとがそれぞれの自己を持った時から「法的人格」になるのかはよく分からない。伝統社会的なものが社会の表層から姿を消し、それに代わって市民社会化が急速に進んだ60年代において、とりわけそうした傾向が強く現われたということは言えるかもしれない。たしかに60年代における「法的人格」の透明性・抽象性には何か尋常でないものが感じられたことは否定できない。そうでなければ、「新しい世代が自らを世界に挿入するときに仕掛けてくる攻撃」が60年代におけるような規範的な展開を見せたことは説明がつかないだろう。われわれは「個人の自己」に促されてそうしたのではなく、あの合意(約束)に導かれてひとびととともにそれを行なったということだ。

◇上に触れたマルクスへのこだわりにも見られるように、われわれが創始としての行為を制作のイメージを超えて理解していたと言うことはできない。われわれは「法的人格」として行為したとは言えるが、われわれの誰もマルクスやレーニンやトロツキーの制作(ポイエーシス)的な革命イメージを超えてなどいなかった。こうした行為の二重性が60年代的な気分と68年反乱の特長だった。とは言え、われわれの多くがイデオロギーとしてのマルクス主義を本当のところは信じてなどいなかったことも事実だろう。そうすることができるにはわれわれはあまりにも法的であったし、ホルクハイマーに倣って言えば「個人の解放とは社会からの解放ではなく原子化からの社会の解放である」というあの合意内容に忠実だった。このことが60年代的な気分と68年反乱の終息を一挙的で劇的なものたらしめたとは言えるだろう。マルクス主義は60年代の終焉とともに滅びたわけではないが、反乱とそれを促した気分の方はそれとは無関係に跡形もなく霧散した。

◇この霧散の仕方も60年代的な気分と68年反乱の二重性という特長をはっきりと示していた。われわれが共有していたあの合意(約束)は人間の故郷でありうるような世界を建設して行く具体的な行為の支えなくしては生き延びることができなかった。ウェザーマンや赤軍派などの"戦争派"はそのことに気がついていた可能性はあるが、そうであるとしても「第2の10.8」は生まれようがなかっただろう。こうして60年代は最終的に終わったと言える。その後の「生きた屍」(ハンナ・アーレント)のようなわれわれの生はこの物語のあとの話だが、「楽しくなければ意味がない」というモットーだけは生き延びたと思われる。だからウェザーマンや赤軍派のようなイデオロギッシュな"戦争派"はマイナーな存在にとどまるほかなかった。70年代に始まった「終わりなき日常」は当分終わりそうな気配がないが、新しい始まりはいつもわれわれの予期に反して生起するのだとすれば、いまも60年代的なものは新しい世代とともに「攻撃」の機会を狙っているのかもしれない。

◇ところでぼくがマリアと最後に会ったのは、大学入試の内申書をもらうために卒業した高校へ行く途中の北鎌倉駅においてだった。ぼくが高校を出て浪人をしているあいだマリアと会うことはなかったから、それは約2年振りの偶然の再会だった。ぼくより先に大学に入っていたマリアはぼくの妹のような存在ではもはやなくなっているようだった。ぼくはその時マリアと会う内的な動機を持っていなかったが、少女の面影を残した美しいマリアを前にするとやはりドキドキした。マリアとぼくは北鎌倉駅のベンチと横須賀線の車内でそれぞれの近況報告をしたあと大船で別れた。それは71年のはじめ頃のことだった。その時マリアもぼくもまだ20才になっていなかったのに、お互い何十年も会っていないような顔をしていたのが印象的だった。たしかにぼくがマリアと会わなかったその2年のあいだに60年代が終わり、われわれにとって未知の70年代が始まっていた。この時代の切断がマリアとぼくにもたらした時間の"遠さ"は想像を絶するほどのものだった。

◇ぼくは小学生の時好きだった3人目の少女のことを語っていないし、中3女子三人組のひとりで最後に大船で会った女の子についてももっと語るべきことがあった。実際ぼくが中3の頃までの山ノ内を中心とした慣れ親しみの世界はぼくの「法的人格」に先立って存在していた。その世界は自然の色彩と奥行きと落ち着きを持っていた。それは生物としてのぼくの故郷だった。たしかにマリアの存在と(それに促されてと疑うことのできる)高2の秋頃からのぼくの政治志向はその後のぼくの生き方を決定づけたが、それがぼくの青春のすべてだったわけではない。ぼくの私的生活は「暗がり」(ハンナ・アーレント)とともにあった。ぼくのなかのマリア=妹というイメージもその世界に根を持っていた。だが、ぼくのなかでそうした「暗がり」が再びせり出して来たのはあの合意(約束)と法と世界形成の時代が終息したあとだった。合意と約束の物語は私小説的な世界とは領域を異にする。つまり、この物語の真の語り手はあの時代にほかならなかったとも言える。(続く)

【2004/09/10 AK】

山ノ内のマリア (第22回)

◇ハンナ・アーレントによると、マキアヴェッリとロベスピエールは創設の行為は政治的行為の中心、公的-政治的領域を樹立し政治を可能にする唯一の偉大な行ないであると感じていたが、しかし彼らは創設の行為を制作のイメージで理解したとのことだが(『過去の未来の間』みすず書房P.189)、日本の新左翼と60年代の青少年たちは制作のイメージ即ち目的・手段の体系や枠組みを超えたところで1968年の"祭り"を捉えそこに参与することができていたのか? もしそうだったとすれば、何故そのようなことが可能だったのか? 日本の新左翼は最終目標としての世界共産主義を目指す政治結社であり、その手段として権力奪取=革命を捉えていたのではなかったのか? 60年代の青少年たちはそうした革命結社として新左翼を支持していたのではかったのか? これらの問いこそがこの物語で目指されていた問いでもあったわけだが、少なくとも68年の日本の反乱において共産主義やプロレタリア革命がリアルなテーマにならなかったことは間違いない。

◇しかしそうは言っても、日本の新左翼と60年代の青少年たちが初めから制作のイメージを超えて政治的に行為したなどと言うことはできない。とりわけマルクス主義を綱領とする日本の新左翼諸党派の場合には、「革命の現実性」ということを言い出す党派もあったように、反乱の創出とそれへ向けた組織を挙げてのコミットメントを革命への手段と捉えていたことは明らかだった。だが、そうした彼らの意図と現実に行なわれたことはまた別だった。特に彼らの孤立した突出のように見えた67年の10.8羽田が68年の"祭り"へと転回したあとではとりわけそうだった。これまでしばしば示唆して来たように、68年の反乱は「法的人格(legal personality)」として形成されつつあった当時の日本の青少年たちによる法的抗争という様相をはっきりと見せて行った。「法的人格」というのはハンナ・アーレントに倣った言い方だが、彼女の場合と同様、ここでも道徳的命令や高次の法などではなく、当時の日本の青少年たちのあいだのある合意が想定されている。

◇ハンナ・アーレントは法的な力の源泉をひとびとの良心や責務にではなくひとびとのあいだの合意に見るわけだが、66年頃に生まれたと思われるあの軽い脳天気な気分を支えたものこそ当時の日本の青少年たちのあいだに生まれた合意にほかならない。ところでこの物語はマリアをひとつの座標軸としたあの時代の「ぼく」の物語であるわけだが、すべての物語がそうであるように事実としての事実が語られているわけではない。そもそも「ぼく」が「ぼく」と言いうる存在になったのは、「われわれはひとりで生きていても決してひとりぼっちではない」と理解されたビートルズのメッセージが「ぼく」の内面を襲ってそこに棲みついた時だった。そしてそのビートルズのメッセージこそ「ぼく」を含む当時の日本の青少年たちのあいだのあの合意の内容だったではないか、というのがこの物語の仮説であるわけだが、恐らくそれこそが急速な市民社会化と大衆社会化が同時進行した60年代において彼らが持つことのできた唯一にして根源的な合意であったろう。

◇68年の反乱はハンナ・アーレントの言う「新しい世代が自らを世界に挿入するときに仕掛けてくる攻撃」というものを範例的な形で見せた。なるほどわれわれが「この世にやって来たのは・・・それが良い場所であれ悪い場所であれ、そこに住むためである」(ヘンリー・D・ソロー)。しかしわれわれがひとびとのあいだで生活を始めるかぎり、自分自身を人間世界の中へと挿入して行くしかない。これがアーレントの言う「創設(foundation)」に先立つ「創始(initiative)」ということの第一義的な意味だが、旧来のすべての権威や価値観からの解放の過程にあったあの終わりの始まりの時期にあっては、われわれの内面の基盤となりうる世界を形成して行くことが同時に求められた。挿入ということは、崩壊の過程にあった旧来の権威や価値観への攻撃であり、人間の故郷でありうるような世界をわれわれ自身が創造して行くことでもあった。「ぼく」におけるビートルズやボブ・ディランとの出会いという出来事は、そうした行為へ向けた合意の儀式であったとも言える。

◇前回も述べたようにぼく自身は68年に高校3年に進み、受験勉強をしながら68年の反乱を横目で見ていたにすぎない。ぼくは自分の生活圏から出て行くこともなく、また自分の生活圏で行動を起こす意思も動機も持たなかった。にもかかわらず、ビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」や「抱きしめたい」を自分自身の音楽であると確信した時から、人間の故郷でありうるような世界を形成して行く以外の選択肢はありえないと感じていたし、従って上に述べた合意の参加者には違いないと思っていた。この確信や感じがあの脳天気な軽い気分を支えていたわけだが、その持続可能性は世界建設の行為によってのみ保たれうる。こうして68年の"祭り"にぼくよりひとつ以上年上の同世代者たちがこぞって参加して行った。この超刺激的な激動の年を傍観者として時間待ちをしながら過ごしたぼくには自分の"不運"を嘆く暇などなかったが、ひとつ年下のマリアがあの合意にもわれわれの法的なあり方にも世界形成にも関心を示さない(らしい)ことにはおどろくほかなかった。

◇だが、おどろくほかなかったのはマリアの方だったかもしれない。68年の反乱は一見すると新左翼諸党派の暴発のようにも見えたし、実際主流派メディアはそのように報道していた。それがビートルズの平和なメッセージとなんの関係があるの、という風にマリアが思ったとしても不思議はない。私だってベトナム戦争を含むすべての戦争に反対だけど、だからと言って街頭を騒乱状態にしたり、大学を暴力的にバリケード封鎖したり、強引に無期限ストライキに入ったりするのが許されるのかしら、と言ったとしても誰がそれを非難できようか? しかし、私は左翼じゃないからそんなこととても支持できない、と言ったとすればぼくとしては反論せざるをえなかっただろう。新左翼諸党派が68年の反乱を革命へ向けた手段と捉えていたことは間違いないから、68年反乱のこの二重性を説明することは当時のぼくには困難を極めただろう。だから実際にはそのことについてマリアと話をしたこともなかった。ぼくはマリアの考えを想像する材料を持っていなかった。

◇しかしこれが「山ノ内のマリア」をめぐるぼくの物語であるかぎり、そういうことを語ろうとする方がどうかしている。物語で語られるのは「現われ」しかありえないだろう。だが前回も述べたように、ぼくの67年秋頃からのほとんど無媒介的な政治志向ゆえ、ぼくの私的・社会的な生き方から"まじめな精神"が消え去った。ぼくは両親や周囲がぼくに期待している(かもしれない)役割に急速に興味をなくした。マリアと知り合うまでは彼女がぼくの生の座標軸になるに違いないと信じていたことさえ嘘のように思えた。自分の内面を支えうる世界が形成されようとしている時に、そういう私的な事柄が無意味に思えたのは分かるにしても、私的生活の支えなくして政治的生活はありえない。ぼくの情熱のあり方は間違っていたわけではないが、"愚か"であったことも間違いない。しかしこのことは、『イェルサレムのアイヒマン』(1963)を書くことでユダヤ人コミュニティーという支えをみずから放擲したハンナ・アーレントの"愚かさ"と比べれば実際たいしたことではない。(続く)

【2004/09/02 AK】

山ノ内のマリア (第21回)

◇前回述べたように、"祭り"の1968年は1月の佐世保闘争によって幕を開けた。それは1950年代の後半に登場した日本の新左翼が、60年安保闘争後の雌伏の季節を脱け出して、再び政治・社会の主役へと躍り出ようとしていた時代でもあった。こういう言い方をすると、ぼくがごりごりの政治少年だったように思われそうだが、そうではない。ぼくは知識としてそういうことを知っていただけで、組織に属する人間とは付き合いもなく、党派の機関紙誌などを読んだこともなかった。知識だけの、しかも単独の新左翼シンパであったにすぎない。情報源は『朝日ジャーナル』、『現代の眼』、『情況』などに限られていた。『現代詩手帖』、『映画批評』、『日本読書新聞』などのカルチャー誌を読んでいる友達もいたから、彼らから借りてその手の雑誌にも時々は目を通していた。だが1968年の主戦場が政治領域に形成されつつあったことは誰の眼にも明らかだった。もちろん、ここに言う政治領域というのはイデオロギー領域のことではなく"祭り"の空間のことだ。

◇しかし、ぼく自身はその年をほとんど山ノ内・大船・鎌倉というぼくの生活圏を出ることなく過ごすことになる。その年ぼくは高校3年に進み、受験勉強をしながら相変わらず音楽を聴き、マルクーゼ、ルフェーブル、梅本克己、桶谷秀昭、内村剛介など、実にとりとめのない読書をしていた。"祭り"の拡大深化を横目で見ながら、灰色の高3時代をやり過ごすそうとしていた。受験のことを考えるのは憂鬱だったが、ドキドキするような出来事にはこと欠かなかった。東大・日大闘争の勃発と激化はわれわれを興奮させるとともに動揺させてもいた(実際、東大闘争は翌年の入試中止という結果をもたらし、われわれ受験生を大いにあわてさせた)。プラハの春はスターリニズム体制を揺さぶっていたし、パリの5月はド・ゴール政権を瀬戸際まで追い詰めていた。アメリカのスチューデント・パワーとブラック・パワーはますます激化先鋭化していた。世界中いたるところで反乱が燃え上がっていたが、"祭り"の自由の空気の方は閉塞に向かっているように見えた。

◇ところが日本の"祭り"の空気は68年を持ちこたえ、翌69年11月まで持続した。恐らくこれは例外に属することだろう。理由はいろいろと考えられるが、まず反乱に先だって日本の急速な市民社会化という過程があったこと、そしてそれにともなってわれわれが法的主体として形成されたこと、が挙げられる。これに高度経済成長の多幸症的気分が重なって、65年から66年にかけてあの脳天気な軽い空気が生み出された。われわれが10.8羽田(と佐世保)に始まる「異常なるものへの冒険」を熱烈歓迎したのは、そうしたその時期のわれわれのあり方によっている。最後に、新左翼諸党派という世界的に見てもちょっと類のない政治主体が日本に存在したことが挙げられる。彼らは日本の旧来の共同体に拠りどころを持たなかったが故に、その頃の日本の青少年たちの気分に依拠して、まったく新しい自由の空間を創り出すことにすべてを賭けることができた。彼らが行なったことこそ、ハンナ・アーレントの言うアゴーン(agon)的な闘争にほかならなかった。

◇ヘルメットという仮面をまとった彼らは、あたかもアテナイの自由市民のように、新しく形成されようとしていた政治領域において党派として勇敢にふるまった。実際、10.8羽田から68年にかけての彼らの競合ぶりはいつもわれわれを楽しませた。ハンナ・アーレントは古代ギリシアの自由な公的空間を演劇の舞台にたとえて語っているが、われわれが羽田、佐世保、王子、三里塚、新宿、防衛庁などにおける新左翼諸党派の行動に見ていたものも、一種の演劇みたいなものだった。言論の方もあの時期にはまだ健在だったと言える。ここで言っているのは党派闘争のことで、多くの新左翼シンパたちが注視しているなかでは、角材投石戦を超える暴力沙汰を控えさせた。陰ではさまざまなテロ行為もあっただろうが、自由の空間が消失したあとのような殲滅戦的な展開はなかった。こうした日本の新左翼諸党派という実にユニークな政治主体の存在、および彼らの異常とも言える行動はわれわれにとっては最高のエンターテインメントでさえあった。

◇その一方でビートルズやボブ・ディランを筆頭とするポップス/ロックは次第に色褪せ、GSを始めとする日本の大衆文化の方もつまらないものになって行った。いつの間にか、生き生きとした大衆文化は街頭とバリケードにのみ存在するというような状態になっていた。しかし上にも述べたようにぼくは自分の生活圏から出て行かなかった。理由ははっきりしていて、両親の手前受験勉強をしているふりをしないわけには行かなかったこと、もうひとつは自分が当事者でないような"祭り"に参加したって楽しいわけがないということによる。前者については説明の必要も意味もないが、後者の方はぼくの臆病で傲慢な気質によっていた。誰しもそうかもしれないが、ビートルズやボブ・ディランの音楽にしても、各自の固有の文脈において受け止め理解するのでないかぎり、それを自分自身の音楽とは考えないだろう。同様に、田舎の高校生としては68年の"祭り"もまずは傍観者として楽しむべきものと考えた。自分の生活圏で行動を起こす意思も動機も持たなかった。それじゃ単なるエゴイズムじゃないかと言われそうだが、ぼくが"主体"であるということはそういうことだった。

◇ぼくの臆病で傲慢な気質はマリアに向けても発揮された。恋愛感情というのは"自然な"感情と言うべきなのかもしれないが(マジ?!)、ぼくはここでも自分に固有の文脈に固執しようとした。もちろん口には出さなかったが、ぼくはマリアがビートルズのファンではなくローリング・ストーンズのファンであることをあまり快く思っていなかった。ぼくは趣味嗜好を含めてマリアを自分好みの女の子にしようと思っていたわけではまったくないが、自分の文脈や好みや意向から外れる部分は無視していた。のみならず、その頃ぼくが考えていたことを彼女にはほとんど何も語らなかった。ぼくがそのような仕方で彼女に対していたことにマリアが気付かなかったはずはない。しかしぼくと彼女が知り合ったのはぼくが高2の時だったとは言っても、マリアとぼくは広い意味では幼なじみだった。彼女もぼくも幼稚園の頃からお互いの存在を知っていた。これがぼくにとって彼女が「山ノ内のマリア」である所以なのだが、そうは言っても相手の人格の一部を無視し、自分自身を明かさないような関係はまず持続しないだろう。ぼくはそのことを知らなかったわけではないが、マリアはある意味では妹みたいなものなんだからまあいいかと、軽くご都合主義的に考えていたふしがある。

◇ぼくはビートルズやボブ・ディランの音楽を通じて形成された自分自身の抽象的な内面を支えるものがあるとすれば、それは「シー・ラヴズ・ユー」や「抱きしめたい」や「ミスター・タンブリンマン」で歌われているような世界だけだろうと思っていた。前回述べた67年6月の学園祭の「現代のフォーク展」でぼくが創り出そうと試みた世界はそういうものだった。それ自体は見事な失敗に終わったが、モチーフが間違っているとは思わなかった。67年の段階ではテーマは世界形成に絞られていた。そこに生起したのが10.8羽田、そして68年1月の佐世保闘争だった。それ故そこに始まる"祭り"を熱烈歓迎したのはぼくの世代の者たちだった。それこそが「シー・ラヴズ・ユー」の世界にほかならず、それはぼくの世代の者たちの"運命"でもあった。しかしそれは政治的な構想や志向や態度にとどめられるべきものだった。私的・社会的生活や男女関係のルールや掟は脳天気でも軽くもない。自由でさえない。それはわれわれが不自由であることを耐えることでさえある。ぼくがそのことを本当に理解したのは、60年代の終焉とともに自由の空気が霧散したあとだった。(続く)

【2004/08/21改稿 AK】
第20回〜第11回へ       第10回〜第1回へ

トップページへ戻る