今週のおすすめ〔15〕

◇「東京物語」と「昭和残侠伝・死んで貰います」 (2008/02/05)

◇今回のおすすめは映画のお話です。内容は小津安二郎の「東京物語」(1953)とマキノ雅弘の「昭和残侠伝・死んで貰います」(1970)を同じ土俵に乗せて、それぞれの物語からある共通の志向を取り出してみようというものです。ただし「東京物語」「昭和残侠伝・死んで貰います」ともにDVDもビデオも当店の目録にはありません。ご了承ください。

◇さて、「東京物語」と「昭和残侠伝・死んで貰います」(以下「死んで貰います」とします)を並べてみると、泣かせる映画という共通点を挙げることができます。しかし泣かせる映画とはなんでしょうか?この2本の映画に即していうと、「東京物語」における戦死したと思われる亡夫への紀子(原節子)の執着と、「死んで貰います」における寒い雨の晩に酒をめぐんでくれた15歳の少女(藤純子)に対する花田秀次郎(高倉健)の執着とが、時間の経過によっていささかも損なわれないことからくることは明らかでしょう。

◇しかし今回はその点については措くことにします。それがけっきょくは人間の義理にかかわってくるにしても、音楽などの説話的な効果に左右されることが大きいと考えられるからです。それゆえ、まずはもっとはっきり見て取れる表層の共通点を列挙することから始めます。

(1)「東京物語」では義理の娘の紀子(原節子)が義母(東山千栄子)の肩を揉むのに対し、「死んで貰います」では「今年32になる義理の息子」の秀次郎(高倉健)が継母(荒木道子)の肩を揉む。

(2)「東京物語」ではその行為を通じて義母と義父(笠智衆)にとって紀子は実子以上の存在となる。それは義父による義母の懐中時計の形見分けにつながる。「死んで貰います」ではその行為を通じて盲目の継母は新しく雇った板前の菊二が義理の息子の秀次郎であると確信する。実家の料亭喜楽の二階で秀次郎が博徒の観音の熊(山本麟一)と対決する場面では、秀次郎を気遣う継母は二度も廊下に出てくる。

(3)「死んで貰います」の盲目の継母が菊二は秀次郎ではないかと最初に直感するのは、秀次郎がつくっただし巻き卵を食べる場面だが(「これよ、喜楽の味は」という)、そのあと番頭の風間重吉(池部良)は秀次郎の耳もとで「血だなあ」とささやく。「東京物語」の紀子はそうはいわないが、いつも実子たちの後ろに控えているのは「血」によっている。末娘の京子(香川京子)との最後の会話の主題も「血」にほかならない。そういう意味で「死んで貰います」では秀次郎と重吉のふたりが「東京物語」の紀子の役柄を担う。

(4)「東京物語」では物語がクライマックスへ向かう場面で義母が死ぬ。「死んで貰います」では秀次郎のおじさん(恐らくはやくざのいうオジキで、演ずるのは中村竹弥)が殺される。

(5)観音の熊を使って秀次郎のおじさん、即ち秀次郎の父親(加藤嘉)の弟分と思われる寺田の親分を帰り道で殺すのは諸角啓二郎演ずる駒井の親分だが、その諸角啓二郎は「東京物語」では巡査(「交番の高橋」)として笠智衆とその友人東野英治郎を娘(杉村春子)の家まで無事に送り届ける。

(6)「東京物語」では小津は自分の愛人村上茂子にアコーディオンで「きらめく星座」の伴奏をさせる。「死んで貰います」ではマキノは自分の甥の津川雅彦に「船頭小唄」を歌わせる。

(7)深川に生まれ育った小津の署名というべき水の影は、「東京物語」では尾道の料理屋のちょうちんのショットに使われる。同じ水の影が「死んで貰います」では最後の殴り込み前の高倉健、藤純子、長門裕之の三者の場面に使われる。水の影が木場の材木に映る。

(8)「死んで貰います」では高倉健の義兄弟というべき池部良が15年ぶりにドスの封印を切って死地へ向かう。高倉健のほうは藤純子と別れて再び「赤い着物を着る」(ムショに入る)。「東京物語」では形見の懐中時計を両手に包むことで原節子の戦争未亡人紀子はいわば未来へ向かって放り出される。

◇以上のほかにも、「東京物語」の大阪の堀割に対して「死んで貰います」では深川の堀割が登場するだとか(かつては大阪も深川も「水の町」という共通点をもっていました)、死者を黒枠の写真で登場させるという共通点を挙げることができます。しかしここでは一般的な死者の影を表わしていると思われる(7)の水の影を挙げるにとどめます。堀割についても同様です。堀割自体より堀割の水の影のほうが前景化されていると思われるからです。尾道の料理屋の水の影は堀割ではなく尾道水道の水の影ですが。

◇ところで「死んで貰います」は小津がついに撮らなかった深川が舞台になっています。マキノ雅弘は京都の人ですから深川に思い入れがあったとは思えません。しかし「日本侠客伝」の一作目(1964)も深川が舞台だし、「侠骨一代」(1967)では深川という地名を何度も語らせます。しかし水の影、つまり視覚化された死者の影を映画に使ったのは「死んで貰います」だけかもしれません。

◇しかし「東京物語」と「死んで貰います」にこれまで述べてきたような共通点がみられるにしても、その根拠は不明というしかありません。マキノが小津の映画を意識していたかどうかは不明だし、池部良が高倉健に「血だなあ」とささやく17年後の映画をみて原節子と香川京子にあのようなやりとりをさせたということはありえません。しかし、にもかかわらず小津とマキノは義理で結ばれる人間の物語を創り上げました。

◇義理で結ばれる人間の物語といえば、「昭和残侠伝」シリーズの高倉健と池部良の物語がまさにそうなのですが、まるで彼らは血のつながりは動物的なつながりにすぎないといっているかのようです。人間は約束をなす動物であって、人間は義理によって結ばれるのだと。それとほとんど同じことを「東京物語」の笠智衆もいっています。「親ちゅうもんの欲」は「諦めにゃならん」と(友人の東野英治郎に向かって)。あるいは「自分が育てた子供より、いわば他人のあんたのほうが、よっぽどわしらにようしてくれた」と(嫁の原節子に向かって)。

◇ハンナ・アーレントの言葉を借りていえば、ここにはオイコスの物語からポリスの物語へ、あるいは社会的関係から政治的な約束へというベクトルがみられます。それを形象化しているのが「東京物語」における笠智衆の義父から原節子の嫁へと手渡される義母の形見の時計であり、池部良が親指で切る「死んで貰います」のドスの封印であると考えられます。

◇以上に述べたことは「東京物語」と「死んで貰います」の表層の共通点にかかわるにすぎません。わたしたちがこの2本の映画から受け取る感動はむしろ時間や死者、あるいはデリダのいう亡霊にかかわっているように思われます。また、小津とマキノに同じ志向をもつ映画をつくらせたのは亡霊効果とでも呼ぶべき何かなのかもしれません。しかしそれらについて考えることはまた改めてとさせていただきます。




新着ガイド〔今週のおすすめ/番外〕

◇W・ジェームズ、埴谷雄高、下町本など (2008/02/03)

◇お待たせしました。ひさしぶりに古書がまとまって新着なりました。今回はかなり古めの本、とはいっても60年代に出版された本が目につきます。まずは1960年に刊行が始まった日本教文社版の『ウィリアム・ジェイムズ著作集』。当方はジェームズを読んだことがないため内容についてコメントすることはできませんが、価格はベスト・プライスといえると思います。ぜひお調べください。ただし、50年近く前の本ですから新品同様というわけには参りません。一部に線引き、書き込みなどもございます。

◇そして1967年から68年にかけて出版された『岩波講座・哲学』シリーズ。「68年革命」の真っ最中に出たものですが、それだけに執筆者の充実ぶりには目をみはります。梅本克己、市川浩、大森荘蔵、滝浦静雄、細谷貞男、原佑、沢田允茂、田島節夫、中村雄二郎、滝沢克己、八木誠一などなど。社会科学畑の宇野弘蔵、大塚久雄、平田清明、高島善哉、自然科学方面の竹谷三男、伊東俊太郎なども目をひきます。このシリーズは18巻まで出たようですが、今回は1巻から16巻まであります。

◇河出書房新社から出た『世界思想教養全集』全24巻というシリーズもあります。「近代思想のめざめ」のデカルト、パスカルから、「フランス実存主義」のカミュ、サルトルまでというラインナップが60年代前半という時代を感じさせます。しかしこういうシリーズはいまの日本ではまず出ないのではないでしょうか。最近50年のあいだに知の社会的価値はとどめようもないほど下落してしまいました。あるいは知が消費財化したといってもいいかもしれません。もちろん50年前だって既に伝統の糸は切れていたのでしょうが、知の遺産はまだ社会の共有財産とみなされていたようです。

◇あとはジョン・デューイの『経験と自然』、ウィリアム・ジェームズ、プラグマティズムなどの研究書、そしてこれまで当店の目録になかった埴谷雄高の8点、音楽書を含む平岡正明の4点(うち1点は竹中労との共著)、羽仁五郎『都市の論理』、W・ライヒ『性と文化の革命』などが目につきます。

◇以上は哲学/思想関係ですが、文芸/評論と小説に移りますと、これまた懐かしい高橋和巳の4点、柴田翔の『されどわれらが日々』、宮沢賢治のちくま文庫版全集5点、文庫本ばかりですが山本夏彦の10点なども要チェックです。その他/雑学の欄にある絵画入りの2点(林家木久蔵『私の下町五十景(浜町河岸から)』と石丸弥平『下町ものがたり』)は古き良き東京下町が詰まっています。見ても読んでも楽しい本です。滝田ゆうの『寺島町奇譚(全)』は漫画ですが、荷風ファンの方なら必読です。

◇ほかにもまだまだいろいろあります。どうぞごゆるりとご閲覧ください。




新着ガイド〔今週のおすすめ/番外〕

◇クラウディオ・アラウのモーツァルトなど (2008/01/26)

◇クラシックの中古CD全30点、ジャズの中古CD全33点、カントリーの中古CD全40点、それにワールド、ミュージックの中古CD全10点、合計113点が新着なりました。しかもどのジャンルともスーパー・キラー級の名盤ばかりです。

◇まずクラシックからいきますと、いろいろあるなかでも真っ先におすすめしなくてはならないのはクラウディオ・アラウの「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」です。なにしろ全7枚という猛烈なセットなのです。なにが猛烈かというと、普通モーツァルトのピアノ・ソナタはCD5枚に収まるのですが(グールドとリリー・クラウスのCBS盤は4枚)、このアラウのセットはなんとCD7枚。

◇どうして7枚にもなるのかというと、演奏時間がとにかく長いのです。それはなぜかということが問題なのですが、一点一画もおろそかにしないアラウの意志によってというしかないでしょう。ではここに聴かれるモーツァルトが四角四面の厳格きわまりないモーツァルトなのかというと、むしろその逆なのです。これほどゆったりと伸びやかで開放的でしかもかぎりなく晴れやかなモーツァルトは聴いたことがありません。

◇それが特に顕著なのはアラウが80歳を超えてからの録音です。K.279, 280, 281の3曲に至ってはアラウ85歳のときの録音ですが、このようにゆったりと流れる時間のなかに生きることができるのであれば、年をとるというのは素晴らしいことだと思わずにはいられません。もちろん小生のような小人には及びもつきませんが、これが才能に恵まれ努力を怠らなかったアラウの究極の境地だったのでしょう。

◇モーツァルトつながりでいうと、クーベリックのモーツァルト2点も必聴です。導入部が「ドン・ジョヴァンニ」を思わせる交響曲第38番「プラハ」が大好きという方は少なくないと思いますが、現代楽器による演奏でこのクーベリック〜バイエルン放送響盤を超える演奏はないのではないでしょうか。オルランド四重奏団と今井信子によるモーツァルトの弦楽五重奏曲も決定盤といえます。

◇あとはナタリー・シュトゥッツマンによるシューマン「女の愛と生涯」+「詩人の恋」、レイチェル・ポッジャーのバッハ、オリガ・ボロディナのロシア歌曲2点、シルヴィア・マクネアーとプレヴィンのアメリカン・ポップ・ソング集2点、イル・ジャルディーノ・アルモニコのヴィヴァルディほか全4点、エネスコ、ムローヴァ、そしてラリューのバッハ、Hyperionのシューベルト歌曲集2点(M.ヒルとA.R.ジョンソン)、それにデヴィッド・ジンマンのベートーヴェン交響曲全集(Arte Nova)など必聴必携盤目白押しです。

◇ジャズに移りますと、これがまた猛烈です。コルトレーンの「ソウルトレーン」と「ブルー・トレーン」を始め、ソニー・ロリンズの「ウェイ・アウト・ウェスト」以下全6点、セロニアス・モンクの名盤3点、アート・ペッパー全盛時代の3点(うち1点はチェット・ベイカーとの共同名義)、MJQの定盤2点、ジョン・ルイスの極シブ名盤2点、バド・パウエルの2点、サッチモの2点(うち1点は超お買い得CD10枚セット)、エディ・コンドンがらみの2点などなど。クリス・コナーとデクスター・ゴードンもキラーな代物です。

◇次のカントリーも凄い。まず女流奏者の時代を切り開いたアリソン・クラウスの4点、歌がめちゃくちゃ巧いリー・アン・ウーマックの4点、さわやか系がお好みならサラ・エヴァンスの3点、それにケリー・ウィリス、ローラ・マイナー、ギリアン・ウェルチなど。ベテランではドリー・パートン、リーバ・マッキンタイア、それにメアリー・チェイピン・カーペンターがなんと全3点。パティ・ラヴレスもあるし、姉御ダニ・レイの素晴らしいアルバムもある。バンジョーの名手アリソン・ブラウンも必聴です。

◇以上はすべて女流ですが、往年のキティ・ウェルズ、68年の全米No.1ヒット「ハーパー・ヴァリーP.T.A.」が聴けるジョニー・C・ライリーもお忘れなく。あとは野郎たちですが、ジョージ・ストレイトの初期の2点は永遠の名盤といっても過言ではありません。オルタナ系のスティーヴ・アールの2点とバディ&ジョリー・ミラーはやっぱりかっこいい。古いところではハンク・ウィリアムスのベスト盤があるし、その孫と思われるハンク・ウィリアムスIIIの2002年のアルバムも素晴らしい。マール・ハガード、ジョニー・キャッシュ、ブルックス&ダン、ジョン・アンダーソン、クリス・ナイトなども絶対に要チェックです。

◇最後がワールド・ミュージックです。数は少ないですが、マリア・シルヴァが聴ける「リスボンのファド1928-36(ファド・フロム・ポルトガル第1集)」はほとんど人類の宝というべきアルバムです。アマリア・ロドリゲスが美空ひばりであるとすると、マリア・シルヴァは藤本二三吉と考えていただくといいかもしれません。カルロス・ド・カルモは男ですが、男声によるファドも味があっていい。ブラジルRGEを代表するサンバ4点ともども"サウダージ"と呼ばれる独特の感覚を楽しむことができます。もちろんインドネシアのエルフィ・スカエシ、フラメンコの2点も外せません。そしてハイチのブークマン・エクスペリアンスも。

◇とにかくとっくりじっくりご閲覧ください。




今週のおすすめ〔14〕

◇宮崎学のやくざ本と東映仁侠映画 (2008/01/17)

◇これまで宮崎学の本を読んだことはないのですが、最近出た『ヤクザと日本』(ちくま新書)は実に啓発的で大変面白い読み物だったため、ここで紹介させていただくことにしました。またこの本の発行は2008年1月10日ですから、当店にはまだ在庫がありません。ご了承ください。

◇宮崎学の本を読んだことはないといったが、そもそもやくざについての本を読んだこともない。まったく関心がなかった。のみならず東映仁侠映画の全盛時代に青春時代を送ったにもかかわらず、それらをリアルタイムでみたことさえなかった。そんな小生が最近東映仁侠映画を集中的にみるようになったのは、内田樹が昨年11月22日のブログで「昭和残侠伝・血染めの唐獅子」をオールタイムベスト10の8位に挙げていたことによっている。1位「秋刀魚の味」、2位「晩春」という順位はよく理解できただけに、みたことも関心を向けたこともない仁侠映画が挙げられていることにショックを受けたわけだ。

◇それで早速DVDで「昭和残侠伝・血染めの唐獅子」と「同・死んで貰います」をみたのだが、それはそれは驚天動地の衝撃的な経験だった。小津、溝口、成瀬、山中(貞雄)たちこそ世界最高の映画作家と信じて疑わなかった当方の映画観が根底から揺らぐほどの。それで「血染めの唐獅子」と「死んで貰います」の監督であるマキノ雅弘の「日本侠客伝」シリーズも何本かみ、山田宏一が書いた『日本侠客伝ーマキノ雅弘の世界』(ワイズ出版)を読むに至って、マキノもまた巨匠のひとりであるとの確信を深めた。

◇しかしである。東映仁侠映画の面白さはマキノ雅弘や山下耕作といった作家たちの話法や手法には還元されえない。東映仁侠映画の主題になっている仁侠道、意地、義理、人情といったものがもたらす感動を措いては映画的感動もない。そういう映画なのだ、東映仁侠映画は。それゆえ、次に日本のやくざのエートスといったものが理解されなければならなくなってくる。そういうものが深い感動をもたらすからには、われわれはそういうものをよく「知って」いるはずなのだが、同時に「忘れて」もいるのだから。

◇以上のような経緯で宮崎学の『ヤクザと日本』を読むことになったのだが、その前に佐藤忠男の『映画の真実』(中公新書)という本を読んで、マキノ雅弘の「日本侠客伝」シリーズに登場するいろいろな「組」のモデルとして中世〜近世以来のギルド的自治・連帯組織を考えるべきことを教えられた。「日本侠客伝」に出てくる「組」のモデルがそういう日本的コミューンのようなものであったとすれば、主人公たちの体現する仁侠道、意地、約束、決定(decision)がもたらす感動は革命にかかわってくることにもなる。

◇さてこの『ヤクザと日本』の要旨は、「近代ヤクザと私が呼んでいるものは、明治になってからの社会の大きな変動のなかで、沖仲仕、船頭、鉱夫、土工、人夫などと呼ばれた下層労働者が、生きんがために寄り集まって自然発生的につくった「組」が発展したものであり、もともと労働者の労働組織・生活集団が、地域的な社会組織として発展的に定着したものであった。そして、それが社会組織として発展し定着したのは、近代化のなかで、そのようなものが必要とされていたからであった。」(P.231)というものである。

◇要するに日本の近代化とはやくざ的なエートス、しきたり、慣習に媒介された近代化にほかならず、丸山眞男に代表される近代主義者が称揚しているような近代化とは根本的に異なるものであったこと、しかしいまや丸山眞男が理想としたような「「反無法者」の生き方が社会をほぼ全面的に支配したことで、こんなにも息苦しいどうしようもない日本社会ができあがってしまったのではないか」(P.11)という問題意識がこの本の記述を導いていく。丸山眞男が一貫して近代主義者であったかどうかはまた別の問題だが、宮崎学が『現代政治の思想と行動』の「無法者の類型」に感じた違和感(P.7-11)は正当なものといえる。

◇宮崎学が『ヤクザと日本』で展開している日本の近代化のあり方については直接この本にあたっていただきたい。ここでは、「暴力がぶつかり合う「自然状態」を秩序化しうる仁侠という装置はひとつの社会的権力を形づくる」(P.51)だとか、「自力救済の世界」(P.64)におけるやくざの役割だとか、「近代の産業化を通じてのひとつの鋳型としての親方・子方関係」(P.71)だとか、「部分社会の自治と相互扶助の方法としての「談合」」(P.222-223)だとかいうような恐ろしく刺激的な論点を列挙するにとどめる。

◇この本の真の主題は、日本における近代化のエンジンにもなり、調整役、緩衝役ともなったやくざ的エートスということにほかならない。キーワードは自治、自力救済、相互扶助、社会的権力などだが、これらはコミューン、レーテ、ソヴィエト、タウンシップなどの属性にかかわる事柄でもある。ハンナ・アーレントは社会領域と政治領域をはっきりと区別し、コミューンに代表される人民の権力は政治領域の事象であるとしたが、日本における社会と政治は彼女が考えるよりも未分化なのかもしれない。

◇この本にはやくざ的エートスを日本独自の倫理学として打ち立てようという志向もみられる。恐らくそれはジャック・デリダのいう「来るべき民主主義」や「来るべきインターナショナル」とも重なっていくと思われる。要するにパーリアやルンペンプロレタリア、あるいは「プレカリアート」(雨宮処凛)の倫理学のようなもの。あるいは泉鏡花の「義血侠血」とカントの定言命法を結ぶような倫理学。まあそこまでいうと宮崎学の議論から離れてしまうが、やくざ的な義理と人情の倫理学こそ日本の近代化によってもたらされたわれわれ自身の倫理学ではないか、というのが『ヤクザと日本』の底にある問題意識であると思える。

◇これはまた「日本侠客伝」など東映仁侠映画の歴史的社会的背景の解説ともなっている。たしかにそれらの映画は同時代においては「一種の感情的倒錯」(四方田犬彦)を生み出したであろうし、「現実にはまったくありえない絵空事の美しさ」(佐藤忠男)とも思われたであろう。

◇しかし現在においてはそれらは倫理を主題にした映画としてみられる必要がある。とりわけ「昭和残侠伝・死んで貰います」(マキノ雅弘、1970)、「日本侠客伝・昇り龍」(山下耕作、1970)、「緋牡丹博徒・鉄火場列伝」(山下耕作、1969)、「侠骨一代」(マキノ雅弘、1967)の4本はその最良のサンプルであると申し上げたい。「侠骨一代」と「死んで貰います」はデリダの亡霊理論(『マルクスの亡霊たち』)の映像化としてみることさえできる。

◇ついでにいっておくと、東映仁侠映画には小津組と溝口組のOBたちがかなり出ている。例えば、池部良、鶴田浩二、須賀不二男、諸角啓二郎、安部徹、三上真一郎、牧紀子、高橋豊子、河津清三郎、田中春男、原健作など。スタッフには斎藤武市(監督)、斎藤一郎(音楽)などがいる。

[追記:そのうち仁侠映画の目録をつくる予定です。ご期待ください。]




新着ガイド〔今週のおすすめ/番外〕

◇サルトル、ブランショ、バタイユなど (2007/12/20)

◇お待たせしました。ひさしぶりに古書がまとまって新着なりました。今回目につくのは人文書院のサルトル全集の4点、それからモーリス・ブランショの主著というべき現代思潮社の2点、二見書房から出ているバタイユ著作集の目玉というべき2点、廣松渉の『資本論の哲学』、加藤典洋の『理解することへの抵抗』ほか3点、ノーベル賞経済学者アマルティア・センの『合理的な愚か者』以下3点、アドルノの音楽書2点、それに日本映画関係の5点などでしょうか。

◇サルトルはアルチュセール、フーコーらのいわゆる構造主義の登場以降、ソ連邦が健在だったあいだは過去の存在のように見なされていました。しかしジャン=リュック・ナンシーの『共出現』(1991)やデリダのサルトル論(1996、「「彼は走っていた、死んでもなお」やあ、やあ」)などによって、改めてそのアクチュアリティが見直されているように思われます。とりわけ「(マルクス主義≒コミュニズムについての)「私たちの時代の超え難き地平」というサルトルの言葉は正しかった」というナンシーの断言は決定的だったかもしれません。

◇ナンシーが引用しているそのサルトルの有名な言葉は『方法の問題』の「総序」に見られます。「わたしは、マルクス主義をわれわれの時代ののりこえ不可能な哲学とみなしているからであり」云々がそれです。後期のサルトルは日本の主体性論などとともに新左翼=反スターリン主義左翼の思想的バックボーンともなりましたが、21世紀の現在にあってはまた違った読み方がなされるはずです。少なくとも『存在と無』、そして『方法の問題』を序説とする後期の主著『弁証法的理性批判』は、現在の新しい視点から読み直すことができる本といえるはずです。

◇モーリス・ブランショの『文学空間』は、ハイデガーの思考とデリダの思考の結び目に位置する書といえるかもしれません。それはマラルメ、カフカ、リルケ、更にはヘルダーリンの「作品」を論じた本ですが、そこで思考されていることは狭義の文学にとどまるものではありません〔今回のものは万年筆による線引があるため、価格を低く設定させていたきました〕。バタイユの『エロティシズム』はよく知られた本ですが、ナンシーの『無為の共同体』の発想源にもなっている必読本です。ひょっとすると「普遍経済学の試み」という副題を持つ『呪われた部分』はもっと重要なのかもしれませんけれど。

◇サルトル、ブランショ、バタイユに比べると加藤典洋の本はずっと読みやすいものですが、内容は決して軽くはありません。対談集『戦後を超える思考』から入って行くのがいいかもしれません。アマルティア・センの本はジャンルとしては経済学に分類されるのしょうが、わたしたちもそうであるに違いない「合理的な愚か者」への批判は現代の合理的理性批判へとつながって行くはずです。アドルノの2冊はブランショの『文学空間』の音楽版ともいえそうです。とりわけ『新音楽の哲学』は新ウィーン楽派以降の音楽を理解する上で第一に読まれるべき本です〔これもペンによる線引があるため、価格は安くしました〕。

◇むかしの映画が続々とDVD化されるいまでは、日本映画関係の5点も要注目といえるでしょう。DVDによって、小津安二郎や木下恵介といった作家たちだけでなく、山田五十鈴、原節子、李香蘭(山口淑子)といった俳優たちもいわば同時代人になったわけですから。あと岩井克人の2点、トロツキー関係の3点、富岡多恵子の『西鶴の感情』(大仏次郎賞等受賞)などもあります。ごゆるりとご閲覧ください。尚、以下の新着本と各ジャンルの目録との重複はありません(いずれ各ジャンルに収まりますが)。




今週のおすすめ〔13〕

◇70年代のボブ・ディランを聴く (2007/12/15)

◇ボブ・ディランの音楽活動の頂点を記録したアルバムを挙げるとすれば、1966年の『ブロンド・オン・ブロンド』を挙げるのが妥当だろう。最近ではその前年の『追憶のハイウェイ61』を挙げる人が多いようだが、LP2枚組というボリューム、「雨の日の女」、「アイ・ウォント・ユー」、「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」といったヒット曲が聴けること、更には演奏時間10分を超える名曲「ローランドの悲しい目の乙女」が収録されていることからしても、アルバムの出来としては『ブロンド・オン・ブロンド』のほうが上だろう。

◇最近では『追憶のハイウェイ61』が挙げられることが多いというのは、『ブロンド・オン・ブロンド』が登場したときの衝撃の記憶が遠くなったということがあると思う。歴史となった時間の平面上にこの2つのアルバムを置くと、60年代の空気のなかでしか生まれえなかった超名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」に始まり、「廃墟の街」に終わる『追憶のハイウェイ61』のほうがインパクトが強いということはいえるかもしれない。いずれにしても、65年夏の「ライク・ア・ローリング・ストーン」に始まり、同年秋の「淋しき街角」、66年前半の「窓からはい出せ」や「スーナー・オア・レイター」を経て、同年秋の「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」へと至る、不穏さと新しさに満ち溢れた音楽を創造し続けたボブ・ディランの疾風怒涛時代は歴史化されたといえよう。

◇1965年から66年にかけてのボブ・ディランの疾風怒涛時代は、ディランズ・チルドレンともいうべきポップ・ミュージシャンたちによるボブ・ディランのカバー曲がヒット・チャートをにぎわせた時代でもあった。その第1弾が65年6月にナンバー・ワン・ヒットとなったバーズの「ミスター・タンブリンマン」で、この曲によってフォーク・ロック時代が幕を開ける。それに続いてタートルズの「悲しきベイブ」、ワンダー・フー(フォー・シーズンズ)の「くよくよするなよ」などが大ヒットした。この1年ほどの間に、プロテスト・ソングのプリンスと呼ばれていた当時24歳のこの若者は、60年代のポップ文化を象徴するスーパー・ヒーローへと変貌した。

◇しかし、よく知られているようにボブ・ディランは66年7月のオートバイ事故をきっかけにしていわゆる隠遁生活に入る。その時期に録音されていたのが75年になって公式発売された『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』(当店目録番号PC 0207)だが、それが「ルーツ・ミュージックへの開眼」とか「ルーツ・ロックへの先鞭」として位置づけられるのは間違いないにしても、『ブロンド・オン・ブロンド』が孕んでいたような革命前夜を思わせる不穏な感覚、まったく新しい世界を音楽で開示するような未聞の響きはそこにはない。それはもう単なる音楽に過ぎず、時代や文化をリードしていた『ブロンド・オン・ブロンド』までの響きは聴かれない。つまり、この時期にボブ・ディランは時代の先頭を走る革命的創造者から普通のポップ・ミュージシャンへと再び変貌を遂げたわけだが、そういう意味でボブ・ディランは終わったといえるのだろうか?

◇たしかに60年代という時代が生み出し、60年代の祭神にしてミューズでもあったボブ・ディランは終わったといえる。しかしボブ・ディランの音楽活動が終わったわけではないし、彼なりの仕方で時代にコミットしていったことも間違いないだろう。とりわけ74年から79年頃にかけてのボブ・ディランの音楽には、再び時代のなかに立つ、それもひとりで立つという「風に吹かれて」や「はげしい雨が降る」の頃のような気配が感じられる。アルバムでいえば『血の轍』(1975、当店目録番号PC 0209)がそれで、「ルーツ・ミュージック」や「ルーツ・ロック」への不毛な逸脱によって見失われた時代への全人格的な関与が聴かれる。佳曲がいっぱい詰まっているが、ベスト・トラックは4曲目の「愚かな風」ではないかと思う。

◇ボブ・ディランが67年から「ルーツ・ミュージック」や「ルーツ・ロック」のほうへと向かった理由はよく分からない。考えられることは、63年頃から66年にかけてボブ・ディランが目指していたと思われる第2次アメリカ革命(第1次は1776年のいわゆる独立革命)が、カウンター・カルチャーのようなおかしな副産物を生み出したことに辟易したからではないかということ。もうひとつは時代の最前線に立ち続けたことからくる消耗。4人で時代を牽引していたビートルズでさえ66年にはスタジオに退きこもってしまった。ましてボブ・ディランはたったひとりだ。その重圧と疲労は想像にあまりある。しかしなぜ「ルーツ・ミュージック」または「ルーツ・ロック」だったのか?

◇というのも、65年の「ライク・ア・ローリング・ストーン」からしてルーツ志向がはっきり認められるからだ。二人称で歌われるこの歌の歌詞を一人称に戻すと、典型的なブルースの転落ソングになる。例えばベッシー・スミスの"Nobody Knows You When You're Down And Out"(1929)がそうで、「ライク・ア・ローリング・ストーン」のメロディとサウンドにしても、同じくベッシー・スミスの"The Yellow Dog Blues"(1925)などが踏まえられている可能性がある。ベッシー・スミスらのクラシック・ブルースだけではない。『追憶のハイウェイ61』に収録されている「悲しみは果てしなく」や、『ブロンド・オン・ブロンド』に収録されている「ヒョウ皮のふちなし帽」は、ロバート・ジョンソンの歌うデルタ・ブルースを現代化した音楽として聴くこともできると思う。

◇だいたいボブ・ディランはフォーク・シンガー時代からブルースを歌い続けてきたのではないか。ボブ・ディランは最初からブルース歌いだったのではないのか。そのあたりのことは機会を改めて検討したいと思うが、いずれにせよ、ボブ・ディランは音楽のルーツ探求を黒人音楽から白人音楽へとシフトしていったのかもしれない。その意味するところは不明だが、その転換が豊かな成果をもたらしたとはとても思えない。前回と前々回にも述べたように、日本のポップ・ミュージックでさえブルース=ジャズによってそのエンジンが与えられたようなもので、いまでもポップ・ミュージック最大の動力源はブルースなのかもしれない。

◇70年代のボブ・ディランに戻ると、『血の轍』に次ぐアルバムとしては78年の『武道館』(当店目録番号PC 0210)を挙げたい。2枚組というボリュームがすごいし、なによりも時代との関わりを取り戻したボブ・ディランが、「ミスター・タンブリンマン」、「ラヴ・マイナス・ゼロ」、「くよくよするなよ」、「ライク・ア・ローリング・ストーン」、「風に吹かれて」、「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」、「アイ・ウォント・ユー」、「時代は変る」といった60年代の名曲を聴かせてくれる。ボブ・ディランのライヴの素晴らしさは若い頃と変わらない。

◇あと70年代のものとしては、当店の目録には『プラネット・ウェイヴズ』(1973、目録番号PC 0211)、『欲望』(1976、目録番号PC 0212)、『ストリート・リーガル』(1978、目録番号PC 0208)があるが、おすすめは『ストリート・リーガル』だろう。中山康樹の『超ボブ・ディラン入門』(音楽之友社)の「最初に聴くべき10枚」にも入っている。あとの2枚も必聴には違いないが。いや、小文で否定的に触れた『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』だって聴かなければならないには違いない。

[註:小文で取り上げたアルバムは「新着ジャズ&ポップス/ロックCD(+α)一覧」にあります。]




新着ガイド〔今週のおすすめ/番外〕

◇クラシック歌手の歌うポップ・ソングなど (2007/12/07)

◇クラシックの中古CDがまた新着なりました。更に現代音楽の中古CDが1点と映画の中古DVDが20点ほど。しかしなんと言ってもすごいのはクラシックのCDでしょう。最初から最後までからレコ芸特選クラス、というより現代を代表する名演盤が目白押しです。しかし今回特にご注目いただきたいのは、クラシックの声楽家が歌うポップ・ソングのアルバムが7点ばかりあることです。

◇まずは20世紀後半を代表する伯爵夫人(「フィガロの結婚」)にして元帥夫人(「ばらの騎士」)、キリ・テ・カナワの"Kiri Sidetracks"。バックはアンドレ・プレヴィン(p)、レイ・ブラウン(b)、マンデル・ロウ(g)のトリオ。曲目は「ハニーサックル・ローズ」、「ライク・サムワン・イン・ラヴ」、「枯葉」などのスタンダード・ナンバー全15曲。

◇いやいや。こんなに贅沢なアルバムがあるでしょうか。この頃キリ・テ・カナワは47歳ぐらいで、声のつや、輝き、更にはスインギーな乗りも絶品。「ハニーサックル・ローズ」と言えば、アニタ・オデイの名唱が有名ですが、娘に戻った伯爵夫人のようなキリの歌唱もまったく捨てがたい。アニタの姉御ぶりも素晴らしいが、キリの色香にはくらっときます。歌伴にまわったときのマンデル・ロウのギターは絶品だし、プレヴィン、ブラウンのサポートも文句なし。

◇キリのもう1枚「夢見る頃を過ぎても」はもっと若い頃の録音で(1985年)、ネルソン・リドル・オーケストラによるサポートともども夢のような時間を過ごさせてくれます。そして、バーバラ・ヘンドリックスによる"Tribute to Duke Ellington"。バックはモンティ・アレクサンダー・トリオ。さすがに黒人の血は争えません。バーバラのスキャットを聴くと、サラ・ヴォーンも青くなりそう。まったく素晴らしい。

◇あと、ドーン・アップショウのブロードウェイ・ソング集、エリー・アーメリングのガーシュインほかのスタンダード集、ジェシー・ノーマンの黒人霊歌集、キングズ・シンガーズのビートルズ・ソング集など必聴盤ばかりですが、キングズ・シンガーズのアカペラによるビートルズはやっぱりすごい。以前ブラザーズ・フォーがビートルズ・カバー集を出していましたが、このキングズ・シンガーズのほうが楽しい。

◇クラシックの声楽家による歌曲に移りますと、松本美和子さんの「トスティ歌曲集」I、II、IIIが要注目。松本さんの歌唱と声の美しさはよく知られていると思いますが、なんと言っても曲がいいです。なにしろ史上最も甘美なメロディーを書きまくったトスティですから。そのベルカントの華がなんと1から3まであるのです。聴き逃すわけには行きません。在庫各1点というのがなんとも残念です。

◇甘美ということで言うと、スーザン・グラハムの「アーン歌曲集」がとっても甘い。アーンはフランスのトスティと考えていただくといいでしょう。スーザン・グラハムがまためちゃくちゃいい。めちゃくちゃいいと言えば、チェチーリア・バルトリの「ゆかしい月よ〜イタリア歌曲集」も同様です。もちろんパヴァロッティの「オ・ソレ・ミオ(ナポリ民謡集)」も忘れるわけには行きませんけど。

◇本格的な歌曲ではペーター・シュライアーのシューマン「詩人の恋(ほか)」がなんとも甘美です。エッシェンバッハのピアノがいいのです。オラフ・ベーアのシューベルト「白鳥の歌」も落とせませんが、ホッター、シュライアー、プレガルディエン、それにクリスタ・ルートヴィヒのシューベルト「冬の旅」という豪華ラインナップはどうでしょう。すべて必聴必携というしかありませんね。

◇シューベルトつながりで言うと、ピアノ・ソナタを中心とする内田光子の5枚はいずれも超特選級です。鬼神の如き凄絶な演奏とでも言いましょうか、まさに決定的名演盤です。その内田光子と並ぶ当代最高の女流ピアニストのひとり、マリア・ジョアン・ピリスの最初のモーツァルト:ピアノ・ソナタ全集もあります(バラですが)。当方など2回目の全集よりこっちを愛聴していたものです。2回目より1回目のほうがいいのはイングリット・ヘブラーも同様かもしれません。もう売れてしまいましたけれど。

◇そしてラローチャのモーツァルト全10点。これも決定盤です。なにしろスペインのピアニストですから、テンポというよりリズム(拍)の感覚が抜群なのです。K.576の第二楽章アダージョなど聴きますと、モーツァルトの後期のソナタの特徴のように言われている簡潔な音楽が、実に深い音楽に変貌するのです。簡潔に見える音楽の底にひそむ息づかいや鼓動を、ラローチャほど見事に再現するピアニストはほかにいないかもしれません。というわけで、協奏曲も含めてラローチャは全部おすすめです。

◇モーツァルトのピアノ協奏曲をフォルテピアノで演奏したものはいろいろありますが、今回の目録にあるインマゼール〜アニマ・エテルナ盤はその頂点と言えるでしょう。お聴きになればお分かりいただけます。録音も超A級です。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲なら藤川真弓盤です。Londonの名エンジニアJohn Dunkerleyの技も素晴らしいもので、音場の捉え方はインマゼール盤を凌ぐと言えるでしょう。

◇あとなにがあるかと言いますと、もちろん大バッハです。すごいですねえ。ロストロポーヴィチ、フルニエ、トルトゥリエ、ヨーヨー・マ、マイスキー、鈴木秀美、今井信子、ハイフェッツ、クレーメル、クイケン、テツラフ、寺神戸亮、ウォルフィッシュ、グリュミオー、ヴァルハ、レオンハルト、アラウ、ヘブラー、シフ、ピノック、キルヒホーフ、キース・ジャレット、廻由美子などなど。なんだか怖いぐらいですね。

◇言い忘れておりましたが、バレンボイムのモーツァルト・ピアノ・ソナタ全集は名盤の誉れ高いセットです。ムジカ・アンティカ・ケルンによるテレマン:ターフェルムジークもあるし、ボッケリーニの官能的でロマンティックで最高に楽しい室内楽もお忘れなく。ヴィヴァルディやバードもですが。

◇映画のDVDでは松竹ヌーベルバーグの決定版「日本の夜と霧」があります。あとヒッチコック、キューブリックの名作から007シリーズまで。とにかくとっくりじっくりご閲覧ください。




今週のおすすめ〔12〕

◇日本のブルースを聴く面白さ (2007/11/26)

◇前回の「戦前の流行歌とブルース」で述べたように、ブルースが日本に移入されたのは昭和の初めであったと考えられる。それからそこでも述べたことだが、ブルースはジャズ(ディキシーランド・ジャズ)と不可分の音楽、あるいはジャズの重要な構成因として移入されたと思われる。従って、「ジャズで踊って、リキュールで更けて/明けりゃダンサーの、涙雨」と歌われた「東京行進曲」(西条八十作詩・中山晋平)が佐藤千夜子の歌で爆発的にヒットした昭和4年頃にはジャズもブルースもそれなりに受け入れられていたと見ることができる。ちなみに「東京行進曲」は同年5月に公開された溝口健二の同名映画の主題歌としてつくられた。

◇しかしブルース=ジャズが取り入れられ、単なるコピーではない日本の歌としてつくられるには更に時間を要したようだ。「戦前の流行歌とブルース」でも述べたように、日本のブルース=ジャズの第1号曲は昭和8年に発表されたミス・コロムビアの「秋の銀座」(久保田宵二作詩・江口夜詩作曲)と考えられるが、それはあくまでも「秋の銀座」であって「銀座ブルース」とは考えられていなかったようだ。しかし、この「秋の銀座」ほど曲想、テンポ、拍に至るまで本格的につくられた日本のブルース=ジャズはほかにないだろう。それほど「秋の銀座」は後のいかなる日本のブルースよりサッチモの演奏するブルース=ジャズに近い。

◇その後もブルースはつくられて行ったと思われるが、タイトルにブルースが付く最初のヒット曲としては淡谷のり子の「別れのブルース」(昭和12年、藤浦洸作詩・服部良一作曲)を挙げなければならない。この曲は淡谷のり子のCDアルバム「別れのブルース」(当店目録番号JE 0007)で聴くことができるが、残念ながらステレオによる再録音版で、声と歌唱が堂々としすぎているように思う。しかし「雨のブルース」(同13年)、「東京ブルース」(同14年)などの代表曲も収録されているから、日本の流行歌に関心がおありの方には必聴と言える。ここに挙げたブルースが付く3曲の作曲者は服部良一で、そういう意味で日本のブルースのスタイルを確立したのは服部良一であると言うことができる。

◇そうすると、淡谷のり子が「ブルースの女王」と呼ばれたわけだから、服部良一は「ブルースの帝王」とでも言えるのかもしれないが、そのすぐあとぐらいに上海で李香蘭のプロデューサーのようなことをやったり、戦後は笠置シヅ子を「ブギの女王」に仕立て上げたりしているから、そういう呼び方は彼には似つかわしくない。もし日本で「ブルースの帝王」と呼ぶに相応しい人物を探すとすれば、だいぶ時代は下るが、フランク永井を挙げるのが妥当だと思う。フランク永井の最大のヒット曲は「有楽町で逢いましょう」(昭和32年、佐伯孝夫作詩・吉田正作曲)だが、最高傑作という意味では「おまえに」(昭和47年、岩崎時子作詩・吉田正作曲)を推したい。この歌が日本のブルースのひとつの洗練の極であることは間違いないと思う。それでも音楽としての力と完成度ということではミス・コロムビアの「秋の銀座」には及ばないだろうが。

◇さて昭和10年代のブルース楽曲による淡谷のり子の躍進はその後どうなったかというと、けっきょく対米英開戦と敗戦の混乱のなかで後退、というより沈黙を余儀なくされる。そもそもブルースで歌われることは「セントルイス・ブルース」以来明るいものでも勇ましいものでもなかった。「セントルイス・ブルース」の歌詞は、夕日を見るのはいやだ、自分の行く末を考えさせるから、というものだ。そもそもブルース的心性は昼間の明るさを好まない。それは自分自身を肯定しない。だいいち奴隷として拉致されてきたアメリカの黒人がそういう自分たちのあり方を肯定できるわけがない。ブルースとはあらかじめ失われているものへのノスタルジーであるとも言える。日本人がそういう音楽に共感したのは、彼らもそういう感覚を抱えていたからに違いない。とにかく、ブルースとは自分自身への疎隔と距離の感覚であること、そのことを表現する音楽として日本のブルースも生まれたであろうこと、このことを押さえればそれが現在進行形の音楽であり続けたことは理解されると思う。

◇そう考えると、二葉あき子「夜のプラットホーム」(昭和22年、奥野椰子夫作詩・服部良一作曲、目録番号JE 0083収録)、菊池章子「星の流れに」(同年、清水みのる作詩・利根一郎作曲)、二葉あき子「フランチェスカの鐘」(同23年、菊田一夫作詩、古関裕而作曲、JE 0083収録)、二葉あき子「水色のワルツ」(同25年、藤浦洸作詩・高木東六作曲、JE 0083収録)、エト邦枝「カスバの女」(同30年、大高ひさお作詩・久我山明作曲)、コロムビア・ローズ「どうせ拾った恋だもの」(同31年、野村敏夫作詩・船村徹作曲)、織井茂子「夜が笑っている」(同33年、星野哲郎作詩・船村徹作曲、JE 0022収録)という具合にブルース系統の歌がつくられて行ったのもよく分かる。のちに藤圭子やちあきなおみがこれらの歌を好んでカバーしているが、ブルース志向の強い歌手としては歌い甲斐があるというものだろう。

◇上の曲目リストを見れば、淡谷のり子のブルースを戦後に継承したのは二葉あき子だったと言えると思う。当店の目録にある彼女のCDアルバムも再録音版だが、これも必聴。二葉あき子に続くブルース歌いは、男がフランク永井だとすると、女は西田佐知子だったと言えるかもしれない。「アカシアの雨がやむとき」(昭和35年、水木かおる作詩・藤原秀行作曲、目録番号JE 0075収録)は60年安保闘争後の虚脱感、挫折感を表した歌として受け取られたようだが、それはこの歌が朝の歌であることからも理解される。それまで日本のブルースは主に夕暮れや夜を歌っていた。そういう意味で朝を歌った「アカシアの雨がやむとき」は新鮮だった。西田佐知子は赤木圭一郎主演の映画「拳銃無頼帖・抜き射ちの竜」(昭和35年)のなかで「一対一のブルース」という歌を歌っているが、そのなげやりな歌詞と淡々とした表情も印象的だった。

◇赤木圭一郎の名前が出てきたついでに言っておくと、関川夏央は『昭和が明るかった頃』(文春文庫)のなかで、赤木圭一郎は「その存在自体で寒色の抒情を表現できた未完成の得がたいスター」だったと述べている。まさに至言であるが、関川の言う「寒色の抒情」こそ日本のブルースの真髄であるとも言える。上にも述べたようにブルース的心性は一種の疎隔感からくるのだが、「役者にならなければ、日本にいなかったでしょう」と語った赤木圭一郎にもブルース的心性を見ることができる。つまり、「寒色の抒情」は赤木圭一郎という存在のあり方からきていた。赤木圭一郎の恋人役を演じた笹森礼子、浅丘ルリ子、芦川いづみにはそういうものはあまり感じられなかったが、当時の日活アクション映画で踊り子、ストリッパー、キャバレーの歌手といった役柄を演じた白木マリにはブルース的なものが感じられた。

◇フランク永井、西田佐知子に続くブルース歌いとしては、青江三奈、藤圭子、森進一、前川清(目録番号JE 0015)などが挙げられる。しかしベッシー・スミスやビリー・ホリデイに匹敵する歌い手ということになると、フランク永井と藤圭子を挙げるべきだろう。とりわけ素晴らしいのはやっぱりフランク永井で、「おまえに」や「大阪ぐらし」(昭和39年、石浜恒夫作詩・大野正雄作曲)に聴かれるなにものかへの距離の感覚、はかない世界への手探りの感覚はベッシー・スミスをさえ凌ぐように思われる。フランク永井の歌に聴かれる表情、テンポ、拍、「魔法のヴィブラート」(吉田進)こそ普遍的なブルーノートではないかと言いたくなる。

◇韓国にもブルースという音楽があるようだが、小生が知るかぎりではチュ・ヒョンミ(周R美)の歌がベスト。とりわけ彼女の歌う「イテウォン・パン・プルス(梨泰院夜曲?)」は絶品で、ミス・コロムビアの「秋の銀座」に迫るかもしれない。当店の演歌/歌謡曲目録にも韓国人歌手のCDがあるが、桂銀淑(JE 0027)や羅勲児(JE 0108、0109)はおすすめできる。チュ・ヒョンミの日本盤は出たことがないと思うが、これはわれわれにとってあまりにも不幸なことと言わなければならない。そういう意味もあって、「イテウォン・パン・プルス」が収録されている彼女の韓国盤CDのジャケットを載せておきます。当店の目録にはありませんけど。

◇以上、日本のブルース名曲を紹介してきたが、それは演歌/歌謡曲と大きく重なるにしても、あり方としては特有のものとして捉えられる。それは藤本二三吉の「都会交響楽」やミス・コロムビアの「秋の銀座」に始まる固有の音楽、即ち日本的に解釈されたブルース=ジャズなのであって、演歌/歌謡曲には解消されない。それは日本の音階とリズムから見られたブルース=ジャズ、そういうものとして自分自身への疎隔感覚からくる音楽である。時代によってその形式が変化することはあっても、自分自身への距離の感覚がもたらすノスタルジーや浮遊感自体が変ることはない。われわれが日本の音階とリズム、そして未来を失わないかぎり、日本のブルースは現在進行形の音楽であり続ける。




今週のおすすめ〔11〕

◇戦前の流行歌とブルース (2007/11/23)

◇溝口健二の映画「浪華悲歌」(昭和11年)をみた方はご存知かと思うが、この映画で主人公の村井あや子を演ずる山田五十鈴が「セントルイス・ブルース」を口笛で吹く場面がある。五十鈴が好色な株屋のおやじ進藤英太郎を追っ払ったあと、「あて、今晩たーんとご馳走するわ」と言って恋人の原健作のために料理をつくりはじめる場面だ。この場面は映画がエンディングに向かって走りはじめる重要な場面だから、選曲は慎重に行われたに違いない。しかし観客が知らない曲ではあまり意味がない。主人公が自分を鼓舞する曲で、しかも観客たちがよく知っている曲、ということで「セントルイス・ブルース」が選ばれたのだろう。

◇「セントルイス・ブルース」は1914年につくられたブルースの古典的名曲で、作曲者ウィリアム・クリストファー・ハンディに富と名声をもたらした曲として知られている。またこの曲はサッチモ(ルイ・アームストロング)の重要なレパートリーでもあり、むしろサッチモの代名詞的な曲として知られている。つまりブルースというよりはディキシーランド・ジャズの代表的な名曲として知られているように思われる。

◇このような「セントルイス・ブルース」がどのようにして日本に入ってきたのかについてはいま調べているところだが、恐らく戦後の録音と思われる日本語ヴァージョンは笠置シヅ子のCDアルバム「東京ブギウギ」(目録番号JE 0025)で聴くことができる。大町達夫という人の作詩で、「赤い夕日に、今日もくれる/哀しあの歌、見果てぬ夢/あふるる涙、ほほをつたう/過ぎて帰らぬ、楽しき日よ」と歌われる。まるで「浪華悲歌」をみて書かれたような詩で、それだけでも一聴の価値がある。「セントルイス・ブルース」以外にも「センチメンタル・ダイナ」(野川香文作詩・服部良一作曲)、「ほろよいブルース」(村雨まさお作詩・服部良一作曲)といった創作ブルースも聴くことができる。

◇笠置シヅ子がジャズ歌手としてデビューしたのは昭和13年頃だから、彼女の歌う「セントルイス・ブルース」がその時期に録音されていた可能性はある。しかし映画「浪華悲歌」がつくられたのは昭和11年だから、溝口健二が「セントルイス・ブルース」を使うことを思いついたのが笠置シヅ子のヴァージョンを聴いたあとということはありえない。既に昭和11年の時点でレコード、ラジオ、カフェー、ダンスホールなどを通じてこの曲が広く親しまれていたということだろう。主人公村井あや子のような普通の少女によって口笛で吹かれるほどに。戦前の日本のジャズ全盛時代は昭和8、9年頃といわれているから、「セントルイス・ブルース」もその頃に大ヒットしたのかもしれない。ご存知の方がおられたら教えていただければ幸いです。

◇ところで普通の少女、つまり普通の人びとによって口笛で吹かれるほど大ヒットしたジャズの曲と言えば、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」(1958/目録番号JC 0003の1曲目)が知られている。御用聞きのお兄ちゃんたちが「モーニン」を口笛で吹きながら出前をしていたという伝説が語られていたほどに。「モーニン」は「セントルイス・ブルース」とは違って曲想はゴスペルだが、どちらもブルーノートのメロディー、つまりブルース音階から成っていることは間違いない。「セントルイス・ブルース」や「モーニン」が普通の(いくぶんヒップな?)日本人によって口笛で吹かれていたということは、それが鼻歌レベルで親しまれていたという意味でもある。つまりブルース音階は日本人の感性にごく自然に受け入れられるようなものであったと。

◇一般には日本人がブルースを受け入れて行ったのは、アニマルズやローリング・ストーズといったリズム&ブルース好きの60年代ビート・グループの音楽を通じてであったとされているようだが、そのずっと前から日本人はブルースに骨がらみになるほど親しんでいたように思われる。日本で発売された最初のジャズのレコードは二村定一の「私の青空」と「アラビアの唄」をAB面に収めたSP盤(昭和3年)であるとされているが、その2曲はジャズという印象は薄いし、ブルースという感じもしない。むしろ日本人による最初の本格的なジャズ=ブルース曲はミス・コロンビア(松原操)の「秋の銀座」(昭和8年、久保田宵二作詩・江口夜詩作曲)と言うべきではないか。

◇更に「秋の銀座」に先駆けるジャズ=ブルース系のヒット曲としては、藤本二三吉の「都会交響楽」(昭和4年、西条八十作詩・中山晋平作曲)を挙げることができると思う。もっとも「都会交響楽」はブルース音階から成っているわけではない。むしろ日本の伝統的な小唄音階から成っている。しかしここに聴かれる日本の小唄音階はブルース音階にとても近く感じられる。ビートルズの初期の曲がブルーノート的であるぐらい、あるいはそれ以上にブルーノート的に聴こえる。楽曲分析ができればもっと断定的な言い方ができるのだが、それができないからいまはこのような言い方しかできない。お許しいただきたい。

◇お許しいただきついでに飛躍したことを言わせてもらうと、「都会交響楽」と「秋の銀座」に代表される昭和初期の日本のポップ・ミュージックは、1910年代頃のジャズ革命、またはブルース革命(ブルース音階のポップ・ミュージックへの侵入と爆発)、あるいは60年代前半のビートルズ革命(アイルランド音階とブルース音階の接触による音楽表現の革命的な解放)に匹敵するような音楽の革命を日本で引き起こしていたように思う。それぐらい「都会交響楽」と「秋の銀座」には未聞の新しさがある。ちなみに、「プロレタリヤに、どこ見て惚れた/朝の作業の、菜っ葉の服よ/振ったハンマーのほどのよさ」という歌詞を持つ「都会交響楽」は、失われた溝口健二の傾向映画(左翼映画)「都会交響楽」(昭和4年)の主題歌と考えられる。

◇歌のほうの「都会交響楽」がプロレタリア音楽としてつくられたかどうかは不明だが、伝統的小唄風の歌詞のなかに当時の林芙美子を彷彿とさせる無頼かつ共同的な感覚を盛り込んでいる。林芙美子は『放浪記』のなかで、「ハイハイ私は、お芙美さんはルンペン・プロレタリアで御座候だ。何もない。何も御座無く候だ」と書いていた。『放浪記』が雑誌『女人藝術』に連載されたのは昭和3年から昭和5年にかけてだから、「都会交響楽」の歌詞が当時の日本人の感覚にぴったりはまったであろうことはまず間違いない。「都会交響楽」の1番では芸者、2番ではデパートのマネキン娘が歌われ、3番は「女よいもの、情で生きる/惚れりゃ地獄の底までも/好いて好かれりゃ、命もいらぬ/どうせ縁(えにし)は二世三世」と続く。

◇「都会交響楽」に代表される小唄系流行歌(当時は「ハー小唄」と呼ばれた)に当たる歌を同時代の他の国で探すと、ワイマール期のドイツで一世を風靡し、のちにナチスによって新ウィーン楽派の音楽とともに退廃芸術とされたクルト・ワイルのキャバレー・ソング、ハンス・アイスラーの革命歌、抵抗歌などを挙げることができると思う。彼らの音楽は当店の目録番号CL 0045、CL 0167、CL 0643、CC 0736、CC 0737、CC 2175などで聴くことができる。60年代にドアーズがワイルの「アラバマ・ソング」をカバーしていたから、ご存知の方も多いと思うが、ワイルの音楽について言えば、退廃的という言い方は必ずしも的外れとは言えない。

◇「都会交響楽」をはじめとする藤本二三吉たちの歌にもそのような傾きがないわけではない。しかしワイルに比べると共同的で大衆的な基盤が感じられるし、なによりも楽曲、歌、発声、語感、楽器の用法などに爆発的な力がある。ワイルの歌が後ろ向きだとすると二三吉たちの歌は前向きと言うこともできる。楽器の用法に即して少し具体的に言うと、「都会交響楽」に聴かれる三味線の用法はほとんどニール・ヤングの"Old Man"、あるいはカントリー歌手Kim Richeyの"Good Day Here"のバンジョーを思わせる。曲想について言えば、ビートルズが創り出した必殺曲のひとつ「アイ・フィール・ファイン」(1965)を思わせさえする。二三吉の声もシャウトを内包したジョン・レノンのようだ。

◇ワイルの歌についてもっぱらネガティヴな書き方をしてきたが、ワイルやアイスラーの歌に詩を提供しているのがベルトルト・ブレヒトという文学史上のあるいは左翼の超大物であることを忘れているわけではない。ここに書いたことは歌を聴いての印象でしかない。そのうち訳詞をみながら聴き直してみるつもりではいるが、いまの印象がひっくり返ることはないように思う。われわれはキャバレー・ソングのブレヒトは分からなくても、「都会交響楽」に聴かれる西条八十の詩心は一発で分かるわけだから。

◇以上、藤本二三吉の「都会交響楽」とミス・コロンビア(松原操)の「秋の銀座」に即して、日本の伝統的な音楽がブルースあるいはジャズとの接触のなかで60年代前半のビートルズ革命に匹敵するような音楽の爆発を引き起こした、ということを述べてきたわけだが、残念ながら二三吉たちのCD、レコードは当店の目録にはない。そういうわけで、興味を持たれた方は他のお店で探してください。そして不要になったら当店に声を掛けてください。お引取りさせていただきます。また、日本で最初に出た「セントルイス・ブルース」や、その頃日本で出たディキシーランド・ジャズのレコードについてご存知の方がおられたらぜひご教示ください。当時ベッシー・スミスの「セントルイス・ブルース」は日本で知られていたのかというようなことも含めて。



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