今週のおすすめ〔28〕

◇ボッケリーニの音楽へのお誘い (2008/06/26)

◇ご存知の方はご存知かと思いますが、当店の目録にはボッケリーニのCDがかなりあります。いま調べてみましたら、全部で21点あって、そのうち3点が売切れになっております。これは「パフォーマンス」という意味では必ずしも良いとは言えません。そういうこともありまして、今回はボッケリーニの音楽とCDを紹介させていただくことにしました。

◇まず基本的なことからいきますと、ルイジ・ボッケリーニはイタリアの作曲家兼チェロの名手で、生年は1743年、没年は1805年です。ということは、パパ・ハイドンより11年、ヨハン・クリスティアン・バッハより8年後輩で、モーツァルトより13年、ベートーヴェンより27年、シューベルトより54年先輩ということになります。

◇シューベルトより54年も先輩というのは意外です。なぜかと言いますと、ボッケリーニの音楽は、ハイドンはもとより、モーツァルトやベートーヴェンよりも更にロマンティックに聴こえるからです。ただしボッケリーニのロマンティシズムは、シューベルトのそれとは少し違います。ボッケリーニの場合はロマンティックというよりエロティックと言った方がいいのかもしれません。

◇こう言ってしまうといきなり核心に入ることになりますが、シューベルト、シューマン、ブラームスのロマンティシズムと言ったって、エロス的なものとは無縁ではありませんから、ボッケリーニの音楽の先進性と独創性はある程度ご理解いただけることと思います。例えば喜多尾道冬氏はボッケリーニのある弦楽三重奏曲のレコードに触れて、「全体にあだっぽい女を愛撫するような官能的な歓喜に満ち、こ惑的な脂粉の匂いさえ漂ってくるほどだ」と述べています(『クラシック名盤大全・室内楽篇』音楽之友社、1999)。

◇前置きはこれぐらいにしてCDを紹介させていただきます。弦楽三重奏曲からいくのがいいと思います。CDはFlieder-Trioによるボッケリーニ:弦楽三重奏曲集Op.14です(当店目録番号CC3274)。編成はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ。ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」をもう一歩ロマンティックにしたようなOp.14-1の導入部に魅せられます。1772年の作のようですが、上向音形、下向音形の味わいがウィーン古典派のそれとはひと味違います。第二楽章アダージョ・アッサイはそのままメロドラマ映画の主題曲に使えそうです。そういうものが全部で6曲収められたCDで、Flieder-Trio(男二人+女)の演奏も充分に魅力的と言えます。

◇次は弦楽五重奏曲です。まずはファビオ・ビオンディ(vn)をフィーチャーしたエウローパ・ガランテによるボッケリーニ:弦楽五重奏曲集(Op.45-4他全3曲)です(目録番号CC3258)。このCDの3曲目には「鳥小屋」と呼ばれるOp.11-6の弦楽五重奏曲が収録されていますが、曲想からすると「鳥小屋」というより「鳥たちの楽園」と言った方がよさそうです。ボッケリーニによる田園の音楽とでもいいますか。ヴァイオリンのビオンディとチプリアーニが実に楽しい演奏を聴かせてくれます。とは言っても、ボッケリーニの中心ジャンルである弦楽五重奏曲の真価を聴かせるのは、アンサンブル415による演奏(CC3069)かもしれません。

◇続いてフォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタにいきます。CDはフランコ・アンジェレーリ(fp)とエンリコ・ガッティ(vn)によるものです(CC3273)。これはもう最高と申し上げるしかありません。シューベルトの場合もそうですが、この曲種になると作曲家たちは古典派的なつくり方をするようです。いやモーツァルトやベートーヴェンがロマンティックなつくり方をすると言った方がいいのかもしれませんが、まさにこれは夢見る古典派のヴァイオリン・ソナタ集です。名手ガッティの素晴らしさは言うまでもありませんが、アンジェレーリのフォルテピアノの美しさも絶品です。これほど美しい音楽は滅多にありません。

◇次はピアノ五重奏曲です。編成はフォルテピアノ、ヴァイオリンx2、ヴィオラ、チェロで、演奏はGalimathias Musicumによるものです(CC3270)。これも素晴らしい。ヴァイオリン・ソナタと同じく古典派的な音楽ですが、これも夢のような音楽です。ボッケリーニはがっちりした構成でつくった場合の方がイマジネーションが自由になるのかもしれません。不思議な作曲家です。このCDでもヴァイオリンを弾いているのはエンリコ・ガッティですから、演奏は文句ありません。上に引いた『クラシック名盤大全・室内楽篇』にも取り上げられていて、「どれを買うか迷ったらまず本ディスクを」と安田和信氏が書いています。ただし、アンドレアス・シュタイアーがお好きという方には彼がフォルテピアノを弾いているCD(CC1051)をおすすめします。

◇目録をご覧いただければお分かりのように、ご紹介したいボッケリーニのCDはほかにもいろいろあります。ビルスマによる3点(CC0575、CC1049、CC1050)、弦楽四重奏曲3点(CC3070、CC3071、CC3072)、フルート五重奏曲(CC3067)、弦楽六重奏曲(CC1053)、ヴァイオリン二重奏(CC3271)、ホグウッドほかの交響曲2点(CC1048、CC1052)、更にはハイドンとカップリングされたヨーヨー・マのチェロ協奏曲(CC0187)もあります。

◇このなかでは弦楽四重奏曲をおすすめしたいのですが、どなたにもおすすめできるということでは、ペペ・ロメロがギターを弾いているギター五重奏曲集でしょう(CC3159)。オーセンティックでしかも趣味的なセレナーデです。「ファンダンゴ」や「マドリードの帰営ラッパ」も入っています。とにかくボッケリーニの音楽には謎と楽しさがいっぱいです。ボッケリーニにとっては楽器の響きこそが謎に満ちた「他者」だったのかもしれません。




今週のおすすめ〔27〕

◇メンデルスゾーンの「春の歌」など (2008/06/20)

◇ひさしぶりに音楽の話です。まずメンデルスゾーンからいきます。なぜメンデルスゾーンかというと、これは前々回、前回の話のつながりになります。吉村公三郎の映画『暖流』にメンデルスゾーンの「春の歌」が出てくるのです。それも、およそピアノなどとは縁がなさそうに見える佐分利信が立ったまま「春の歌」の出だしのところを弾く場面があるのです。

◇ざっとご紹介すると次のような場面です。前日笹島(徳大寺伸)との婚約を解消した志摩啓子(高峰三枝子)が、花びらを浮かべた風呂から上がって化粧をしているところに日疋祐三(佐分利信)が訪ねてきます。花びらを浮かべた風呂に入るというのがなにを意味するのか、私にはよく分からないのですが、とにかく彼女を待っているあいだ、客間にある啓子の白いピアノで日疋が「春の歌」の出だしをちょこっと弾くのです。

◇それに気付いた啓子はぱっと明るい顔をします。前回述べたように、笹島の不誠実さを知って彼との婚約を解消することを決意する場面では、啓子が自分でショパンの「別れの曲」を弾きます。従って、「春の歌」が「別れの曲」との対比で使われていることは明らかです。日疋が啓子に結婚を申し込むのはそのすぐあとなのですが、「春の歌」のさわりを弾いて聴かせたあとでそうするというのは、劇的効果という意味では恐ろしく巧妙と言えるでしょう。そういう場面に相応しい響きが「春の歌」にはたしかにあります。

◇さて、当店の目録にはメンデルスゾーンの「春の歌」が収められたCDが3点あります。バレンボイムのメンデルスゾーン:無言歌集(目録番号CC3214)、ニキタ・マガロフのメンデルスゾーン:ピアノ作品集(CC0602)、それにアンドラーシュ・シフのメンデルスゾーン:無言歌集(CC0604)です。バレンボイムのは2枚組で無言歌が全部で48曲収められていますから、無言歌の全体像をつかむにはこれが最適といえます。優れた演奏であることも間違いありません。しかし「春の歌」にかぎっていえば、バレンボイムの余裕しゃくしゃくたる弾きっぷりはどうなんでしょうか?佐分利信みたいに(下手に)弾いてくれよ、とは言いませんが。

◇マガロフはバレンボイムよりテンポを遅くして、「春」をゆったりと歌ってくれます。このCDには前奏曲とフーガ作品35-5、ピアノ・ソナタ作品106なども収録されており、作品35-5の前奏曲には「春の歌」に通じる曲想が聴かれます。最後はシフですが、テンポがいちばん遅いのがこれです。ちょっと遅すぎて「春」の明るさと喜びがいまひとつという感じがします。「ヴェネツィアの舟歌」の2曲も入っていますからおすすめはできるのですが、「春の歌」について言えば、マガロフがベストのような気がします。ちなみに各CDの録音年は、バレンボイムのが1973年、マガロフのが1988年(ライヴ)、シフのが1986年です。

◇『暖流』つながりで、次はショパンの「別れの曲」です。とはいっても、いま当店にあるもので「別れの曲」が聴けるのは、ポリーニのショパン:練習曲集のLPだけのようです。しかし改めて申し上げるまでもなく、これはショパン:練習曲集の決定的な名演盤です。「別れの曲」も見事なものです。リストが絶賛した前と後のゆったり歌う部分も、中間部の嵐のような部分も文句のつけようがありません。それにやっぱりアナログ盤ですから、音が「立って」聴こえます。低音部の力感も、高音部の輝きも、ポリーニが本当にそこでピアノを弾いているように聴こえます。ちなみにポリーニによるショパン:前奏曲集のLPもまだ在庫があります。

◇メンデルスゾーンやショパンを聴いていると、ブラームスが聴きたくなってきます。というのは、ブラームスの音楽こそロマン派音楽の完成形と思われるからかもしれません。ブラームスといってもいろいろありますが、ヴァイオリン・ソナタがよさそうです。それも「雨の歌」といわれる第1番が。いま当店に在庫があるのは、メニューインのLP(CL0610)、ズーカーマンのCD(CC3042)、アンネ・ゾフィー・ムターのCD(CC3252)の3点だけです。まずメニューインからいきますが、やっぱりこれが決定盤のようです。技術はともかく、全体としてテンポ設定が絶妙です。演奏者が目指すべきなのはこういう演奏ではないか。そう思います。

◇ズーカーマンの演奏だってすごくいいんですけど。ピアノがバレンボイムですから、ヴァイオリンのオブリガート付きピアノ・ソナタという趣きもあるこの曲の代表的名演盤であることは間違いありません。ズーカーマンのしらけたような音色もブラームスにぴったりです。ではムターはどうかというと、ヴァイオリンを聴かせるという意味ではたぶん彼女の演奏がベストでしょう。音楽全体の設計ということでも破綻がありません。ワンセンベルクの伴奏も上手いものです。ちなみにそれぞれの盤の録音年は、メニューイン盤が1960年頃(記載がないのではっきり分かりません)、ズーカーマン盤が1974年、ムター盤が1982年です。

◇ではメニューインとズーカーマン及びムターとの違いはどこにあるかというと、たぶんそれは「ミューズ」といわれるようなもの(世界、他者)とのかかわりのあり方の違いでしょう。実をいうと、メニューインとルイス・ケントナーによるこのブラームスのヴァイオリン・ソナタのレコードが名盤であるという話は聞いたことも読んだこともありません。じっさいここに聴かれるメニューインの演奏は決して上手いといえるものではありません。しかしメニューインのこの演奏には内田樹がよくいう「倍音」のようなものが聴き取れます。個々の音にというより、テンポや楽想の変わり目のようなところにです。とにかく聴いてみてください。ただし当店の在庫は1点きりです。ご了承ください。

◇最後に、映画『暖流』における日疋の啓子へのプロポーズとそのてん末を簡単に紹介させていただきます。啓子は日疋の突然の求婚に驚き、「あんまり出し抜けですわ」と言います。しかし啓子は日疋の求婚に心を動かされたようで、『谷崎源氏』を買いもとめます。「この際日本古来の女性の心理を研究してみようと思いまして」とか言って。しかし、そのすぐあと看護婦・石渡ぎん(水戸光子)と会ってニコライ堂が見える喫茶店で話をし、そこでぎんの日疋への愛を知って身を引くことを決断します。啓子が日疋の結婚の申し込みを最終的に断わるのはそのあとです。この二つの場面で再び流れるのがショパンの「別れの曲」であるわけです。




今週のおすすめ〔26〕

◇吉村公三郎の映画『暖流』 再見 (2008/06/11)

◇今回は前回の続きです。この映画のドラマの骨格については前回おおまかに述べたつもりですが、映画のつくりについてはほとんど述べておりません。しかし言うまでもなく映画はドラマに還元されるものではありません。もしそうであるなら、映画をみる愉しみはかなり矮小なものになってしまいます。極端に言えば、あらすじと解説を読めば済むということになってしまいます。しかし映画には映画特有の表現手法や表現領域があります。今回は映画『暖流』に即してそれらについて考えてみたいと思います。

◇既に述べたことですが、この映画が公開されたのは昭和14年12月です。この年に公開された他の代表的な日本映画としては、清水宏『子供の四季』、島津保次郎『兄とその妹』、内田吐夢『土』、溝口健二『残菊物語』、田坂具隆『土と兵隊』、成瀬巳喜男『はたらく一家』などがあります。このうち私が見たのは『残菊物語』と『暖流』の2本だけですが、このラインナップを見れば、日本映画のピークはこの年だったのではないかとも思えてきます。木下恵介『二十四の瞳』、同『女の園』、黒澤明『七人の侍』、溝口健二『近松物語』、本多猪四郎『ゴジラ』などが公開された昭和29年もすごい年でしたが、どうなんでしょうか?映画の密度、緊張感、噴き出すような力、という意味では昭和14年の方がはるかに上のように思われますが。

◇例えば溝口健二です。彼の名前はどちらにも出てきますが、『残菊物語』と『近松物語』では、密度も緊張感もパワーも違います。『残菊物語』の方が圧倒的に上です。というより次元が違います。それと同じようなことが吉村公三郎の場合にもいえるのではないかと思うのです。彼の映画では昭和31年に『夜の河』が公開されています。これは山本富士子の代表作でもあり、吉村公三郎の映画作家としての健在ぶりを認めないわけにはいきません。しかし噴き出すような力ということでは『暖流』のはるかに上です。もちろん溝口と吉村の二例だけで断言することはできません。しかし映画それ自体の質ということでいえば、日本映画のピークは1950年代というよりむしろ昭和10年代であったとする方が妥当であるように思えてきます。

◇では『暖流』を見ながら具体的に話を進めていきたいと思います。タイトルバックに流れる主題曲はトレッリかロカテッリを思わせる後期バロック風の音楽です。しかし短調の曲で、ヴァイオリンに昔風のポルタメントが聴かれるせいか、なんだかロマン派の音楽のように聴こえます。これは主題曲であると同時に志摩啓子(高峰三枝子)のテーマでもあるようです。その主題曲が流れるなか、物語は乗用車が坂道を上ってくるオープニング・ショットで始まります。乗用車を捉えたキャメラがカーブに沿って左右にパンすると、そこが志摩病院のファサードであることが知らされます。撮影に使われたのは東京医科歯科大病院ではないかと思われます。車を降りた若い女が足早に病院の正面玄関を入っていきます。キャメラはその女の足もとを追います。

◇病院の受付のショットに替わり、事務長の糸田(日守新一)が奥のドアから出てきます。そして女に気がついた糸田が次のように言います。「ああ、お嬢さま。いらっしゃいまし。どうなさいました。お手をお怪我なすったんですって?そいつはいけませんねえ。あいにく部長の田所先生がお手がふさがっておりますもんで、代わって笹島先生がお手当てをいたします。それでよろしゅうございますか? ・・・ じゃどうぞ3階で。ミシンて危ないもんでございますねえ。お痛みになりますか?」 こういうセリフを言わせたら日守新一を凌ぐ役者がいるとは思えません。とにかく見事な導入部で、腰の低い事務屋・糸田の番頭然としたしゃべり、そしてまだ後姿しか見せない院長令嬢・志摩啓子(高峰三枝子)の佇まいの対比がくっきり描かれます。

◇啓子と糸田はエレベーターで3階へ上がります。エレベーターの扉ががらがら開くと、こちらを向いて立っている笹島(徳大寺伸)が映ります。啓子と挨拶を交わしたあと、笹島が「拝見しましょう」と言って治療室へ案内するのですが、そこでキャメラは開放された廊下を外から撮ったショットに替わり、更に窓から外を見ながらリンゴをかじる看護婦・堤ひで子(槙芙佐子)を正面から捉えたショットに切り替わります。ひで子は笹島の愛人であることがあとで分かるのですが、彼女は啓子を案内する笹島を、白鶯(はくおう)寮と呼ばれる看護婦宿舎の窓から見ているのです。彼女のリンゴのかじり方は、大島渚『青春残酷物語』(昭和35年)の川津祐介を思わせます。大島渚がのちに『暖流』のこの場面を借りたとしても不思議はありません。

◇もちろんこの映画は『暖流』であって『青春残酷物語』ではありません。画面外から「堤さん、あんたの番よ」という別の看護婦の声が聞こえると、ひで子は憤りを収めます。志摩病院の看護婦たちが脇で卓球をして遊んでいるのです。ひで子はほかの看護婦に番を譲るのですが、卓球をして遊ぶ看護婦たちの描写によって、彼女がもたらした不穏な感じは一気にほぐされます。そこへエレベーターのところで啓子を見た看護婦が報告にやってきます。「ちょっとちょっと、きたわよ。とってもすごいスーツ着て」、「何が」、「院長さんのお嬢さん」、「なんだ」、「わたし、見てこようかな。だってわたし、一度もお目にぶら下がったことないんですもの。堤さん、あんたも行かない?あんた、いちばんよくお嬢さんの話するじゃないの」、「綺麗だって言っただけよ。あんたひとりで行ってサインでもしてもらってらっしゃいよ。なにさ、あんな人」。この最後のセリフは爆笑を誘います。

◇ここでやっと治療室で手当てを受ける啓子のショットに切り替わります。そしてここで初めて啓子が正面から捉えられます。つまり、この映画を見る者は、ここでようやく病院にやってきた若い女、即ち院長令嬢・志摩啓子を演ずる当時21歳の高峰三枝子の尊顔を拝すことができるのです。上の看護婦たちのやりとりを引き取る形で、私たちもやっと「お目にぶら下がる」ことができるのです。そしてキャメラが少し後退移動してから、緊張した表情で啓子の指の手当てをする笹島のショットに切り替わります。

◇以上、時間を計ったわけではありませんが、物語が始まってからここまで5分弱というところでしょうか。ショット数は当時の映画としても異例なほど多いはずです。パン(キャメラの回転移動)も後退移動も使われていますし(あとで前進移動も水平移動も出てきます)、音楽は違うものが既に3曲使われています。出てくる順に、啓子のテーマ、ひで子のテーマ、笹島のテーマ、と見ることができます。

◇なにが言いたいかといいいますと、この昭和14年公開の『暖流』において日本映画は完全に出来上がっていたということです。映画がもつ固有のリズム、登場人物たちのキャラクター描写、ドラマの伏線のはり方、捉えがたいものを導入する仕方、すべてが完成されています。もっと言うと、カット割りがドラマの推進力になっていること、どんな端役の描写にも意味がないものはないこと、画面の外部にさえ細心の注意が払われていること、反復を通じて映画的記憶をつくり出すという小津的とされるような手法の導入、言葉や時代風俗の描写、これらすべてにおいて『暖流』は空前(絶後?)の高みに達していると見ることができます。

◇これらのうち、『暖流』が真に独創的な映画と言いうるのは、@カット割りをドラマの推進力にしていること、A捉えがたいものを導入する仕方、B画面の外部からドラマをつくり出すということ、そして、C音楽によってストーリーの必然的流れを超える(断ち切る)出来事を示唆するという手法、以上の4点を達成していることであろうと思います。@については、先に少し紹介したこの映画の導入部からもご理解いただけるでしょう。移動を含むキャメラの使い方も、それを補強する話法として挙げておきたいと思います。

◇Aが強く印象づけられるのは、この映画の第2場、鎌倉山の志摩邸を辞した主人公の日疋祐三(佐分利信)が、現在の鎌倉高校へ上る坂道と思われるところで、歌を歌いながら下ってくる女学生の一団とすれ違う場面です。その場面の直前のショットは、日疋が辞したあと、病床の父親(藤野秀夫)のところに顔を出した啓子のショットですから、歌を歌いながら坂を下ってくる女学生たちが、啓子に代表される上流令嬢たちの世界を表わしていることは明らかです。そしてそれはまた、そのような世界を知らずに育った貧乏人の子せがれ日疋の心象、即ちそういうものへのロマンチックな憧れをも表わしていると思われます。更に言えば、それは監督吉村公三郎の心象の投影であるとも言えそうです。どうしてかというと、同じような場面が昭和31年に公開された映画『夜の河』にも出てくるからです。どちらも非常に美しい場面です。

◇Bが最初に印象づけられるのは、上に紹介した卓球場で会話を交わす看護婦たちの場面です。例えばそこに引いた「なんだ」はフレームの外から聞こえます。フレームに映っているのは堤ひで子ですが、「なんだ」と言うのは別の看護婦です。ひで子は卓球場の窓から笹島に案内される啓子を見ていて、彼女が病院にきたことを知っているのです。だから「なんだ」はひで子の隠された声なのです。次に出てくるのは、啓子の父親・志摩泰英のもとを辞する日疋に泰英が「お送りしませんよ」と言う場面です。フレームに映っているのは別の部屋にいる啓子です。それに続いて日疋が志摩邸から出て行くときの「ごめんあそばせ」、「さよなら」は、無人の廊下の縦ショットの外から聞こえます。その廊下の手前の右の部屋に泰英がいるのです。

◇更に、病院の主事室で日疋と日疋の味方・橋爪博士(高倉彰)が会話を交わす場面では、橋爪の最後の方の言葉は日疋にとって「他者」の声のように処理されます。なぜなら、そこで(フレーム外で)橋爪が語っていることは、できれば日疋が無視したいと思っていた彼への看護婦・石渡ぎん(水戸光子)の「恋愛感情」であるからです。つまり、啓子が好きな日疋にとって、ぎんの感情は困惑の種だったのですが、ここで初めて日疋の心に転機が訪れるのです。言い換えれば、その場面において橋爪が発する「他者」の声に導かれて、日疋が執着していた「私」や「個人」を超える決定が生み出されていくということです。

◇上にも延べたように、『暖流』の主題曲はトレッリかロカテッリを思わせる後期バロック風の音楽ですが、それは同時に啓子のテーマでもあると考えられます。じっさいその音楽は啓子が登場する場面でしか使われません。ところで『暖流』には副主題曲とでも呼べるような音楽が使われます。それはショパンの「別れの曲」です。「別れの曲」が最初に効果的に使われるのは、啓子が婚約者・笹島の不誠実さを知って、彼と対決して婚約を解消することを決意する場面です。次が前回紹介した啓子と石渡ぎんが話をするニコライ堂が見える喫茶店の場面です。そこで啓子は日疋へのぎんの愛を知って身を引くことを決断します。その次は啓子が日疋の求婚を断わったあと、日疋が残した暁(あかつき。当時の安煙草)の吸殻をつまむ場面です。

◇最後が日疋と啓子が話をする鵠沼海岸(物語上は三保海岸)の場面です。この最後の場面では「別れの曲」にかぶせて友情の勝利を祝福するような金管の音楽が流れます。しかし、前回も述べたように、『暖流』における友情の勝利というのは、同時に諸「個人」たちの敗北でもあります。ということは、この映画に使われるショパンの「別れの曲」は、登場人物たちの「私」や「個人」への別れ、そして新しく生まれようとしている世界を表わしていると見ることもできそうです。以上が上に挙げたCの概要です。

◇昭和14年に公開されたこの『暖流』という映画は、主題のみならず話法においても個人主義的な発想を問い直すような映画、言い換えれば、コミューンニズム(commune-ism)への傾きを多分にもつ映画であると言うことができそうです。もう少し丁寧な言い方をすると、「私」や「個人」なるものは実は虚構(虚妄)にすぎないこと、それは常に他者(の声)に浸透されていること、それゆえ「私」や「個人」を前提にした考えや志向は敗北(または挫折、失敗)するしかないこと、しかし人間たちが創り出す世界は常に人と人の間に存在すること、それゆえ最終的に勝利するのは「私」や「個人」ではなく人と人の間にほかならぬ人間たちとその世界であること、そういうことをこの映画は話法のレベルでも教えているようです。それは『暖流』にかぎったことではなく、昭和10年代の日本映画はそのような志向をもつ映画が多いように思われます。そして、この『暖流』や溝口健二の『残菊物語』がその頂点に位置する、そう言っても過言ではないと思います。



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