管理人のつぶやき(11)


2005/08/06(対話-81) 「大江健三郎さんに聞く」

 きのう(8月5日)の「日経」の夕刊に「大江健三郎さんに聞く」というインタビュー記事が掲載されていたんだが、もちろん君は読んでいるよね?
 読んだよ。
 じゃあ君の感想を聞かせてくれよ。
 大江健三郎が言うように、人生の終焉を間近に控えた老人が「不安、狂気、苦しみ、恐怖心」にとらえられるというのはごく自然なことだと思うよ。大江は「危険な老人たち」を主人公にした『さようなら、私の木よ!』という長編小説を書いたそうだが(『群像』に連載)、さすがだなと思ったよ。
 死に近づいた老人が自暴自棄になるのは自然なことなのか?
 そう思うよ。少なくとも大江が老人に期待される「円熟した知恵」を拒否するというのは理解できるよ。とは言っても、君も知るように俺自身は大江健三郎のよき読者だったことは一度もないけどね。もちろん『さようなら、私の木よ!』という最新長編も読んでいないし。

 ところで、大江はインタビューの最後に「たとえ老人の冷や水と言われようとも、(憲法第)九条を守るためにはできるだけのことをしたいと思っています」と語っているじゃないか。
 それが俺には分からないところでね。大江は40〜50年前に思考・情況判断が停止してしまってるんじゃないのか? 古山高麗雄や伊藤桂一のように、帝国陸軍の兵隊としてビルマや中国大陸で戦闘に従事した作家がそれを言うのなら聞く耳も持つが、大江は終戦当時まだ10才だったわけじゃないか。
 君は敗戦の断絶は克服さればければならないと考えているのかな?
 そうなんだが、そのためにはいろいろな操作や媒介が必要になる。例えば大東亜戦争を積極的に推進したのは多くの日本国民だったわけだが、俺はそれを誤まてる振る舞いだったと考えているからね。また日本国憲法を作ったケーディス大佐たちGHQのニュー・ディーラーには敬意を抱いてもいるしね。
 そうすると敗戦の断絶を克服するのは容易じゃないな。
 容易じゃないどころか、極めて困難だよ。しかし結論から言えば、俺は憲法は改正された方がいいと考えているよ。それが断絶を克服する第一歩になる可能性があるからね。

 あと、大江は郵政民営化については何も語っていないね。
 おかしな話だよ。大江はブッシュの手先かと勘ぐりたくもなるよ。
 いまやネオ・リベラリズム(=新古典派経済学)は、日本の右派勢力など問題にならないほど危険な存在になっているというのにな。
 この前も言ったように、公的部門の闇雲な民営化は、かつてのソ連の農業集団化に匹敵するような蛮行だよ。それは中曽根内閣時代の国鉄民営化から始まっているんだが、日本国民としての共通感覚がようやくその野蛮さに気づき始めているらしいというのに、大江は何を考えているんだ、と言いたいよ。
 8日の参院本会議採決は、日本国民としての重大な政治決戦になるかもしれないのにな。
 そうだ。ここで郵政民営化法案をつぶしておかなかったら、われわれは人間であり続けるのが難しくなるかもしれないわけでね。しかし、中曽根大勲位の倅が郵政民営化法案に反対を表明したというから、いくぶん救われた気分だよ。政治家たちは問題の本質を理解していないのかもしれないが、人間としての最低限のコモン・センスだけは持ち合わせているようにも思えるからね。


2005/08/04(対話-80) 竹中大臣の答弁

 この前(8月2日)NHKで参院郵政民営化特別委員会の中継をやっていてね。で、それをちょっと見ていたんだが、「郵政が民営化されたあとでも、これまで郵便局の職員たちが持っていた公共の意識が保たれると言えるのか」という野党議員の質問に対して、竹中大臣が「民間の人たちが公共意識を持っていないとは言えないと思う。民間の人たちもそういう意識を持っていたからこそ、日本はここまでやってこれたのではないか」と述べていた。君は竹中平蔵のこの答弁をどう思う?
 恐らく竹中大臣は「経済合理性」と言われる経済活動を行なう「合理的」な「個人」もひとりで生きているわけではないこと、そういう「合理性」もある共同性に支えられていることを言っているんだろう。
 そうかな? そういう一般論を述べているだけなのかな。
 発言内容はそういうことだと思うよ。もちろんそれは郵政民営化を正当化するための答弁なんだから、内容と目的・機能は分けて考えられなければならないけどね。
 しかし俺はその答弁自体が間違っていると思うんだよ。どういうことかと言うと、竹中大臣は経済活動は公共性・共同性に支えられているだけでなく、経済活動によって公共性や共同性が構成されるとも言っていると思うんだ。「日本がここまでやってこれた」のは、公人・公僕たちの公的活動によってだけでなく民間人の私的経済活動によってでもある、と言っているわけじゃないか、竹中は。

 なるほどね。「経済合理性」は公共性や共同性を構成するか否か、ということか。
 そうだ。
 たしかに前回の話を受けて言えば、「経済合理性」を担う「合理的」な「個人」が公共性・共同性を構成するか否か、という問いに対しては否定しか出てこないだろうね。
 だったら竹中平蔵が言っていることは間違っていることになるじゃないか。
 しかし前回の話では経済(学)一般というよりネオ・リベラリズムが問題だったんでね。
 ネオ・リベラリズムの理論的バックボーンは新古典派経済学なんだろう?
 それはそうなんだが、経済(学)一般を問題にする場合には、アダム・スミスの経済観や、飢饉の発生メカニズムを問題にするアマルティア・センの経済観なども参照されなければならないわけでね。スミスもセンも経済学者であると同時に倫理学者でもあるわけだし。
 スミスの経済観はロックのそれと同じようなものなんだろう?
 スミスは私的所有の正当化を目指すロックとはちょっとちがうんじゃないのか。
 そうなのか? しかし君も俺もスミスをちゃんと読んでいないからね。ではアマルティア・センだったら竹中の答弁をどう評価するんだろうか?

 アマルティア・センもつい最近読み始めたばかりだからな。そのかぎりで言えば、たしかにセンは「合理的な愚か者(Rational Fools)」と彼が名付けた人間のあり方を与件とする新古典派経済学に対しては、スミスのモラリッシュな経済観を擁護しているよ。
 なんと言ってもスミスはカントの同時代人だからな。20世紀アメリカ(シカゴ大学)起源の新古典派経済学は、スミス経済思想の自由放任という側面を抽出して単純化しているんだろう?
 アマルティア・センはそう言ってるけどね。
 それで竹中もセンが批判する新古典派の末端に連なる学者なんだろう?
 それはそうだが、だから竹中の答弁も間違っていると言うのは、牽強付会というか短絡もいいところだよ。
 じゃあ君は竹中の答弁をどう評価するんだ?
 竹中が「経済合理性」を担う「合理的」な「個人」は公共性や共同性に対して構成的に作用すると述べているのだとすれば、竹中は間違っているか詭弁を弄しているかのいずれかだよ。
 明らかに竹中はそう言っているよ。
 そうなんだろうな。
 ずいぶん慎重だな、君にしては。
 俺は「合理的」と「理性的」とは同じことではないかと考えるようになっていてね。

 なるほど。ホルクハイマー/アドルノの言う「啓蒙の弁証法」というのは経済領域にかぎった話ではないからな。道具的理性や大衆文化も公共性と共同性を掘り崩してきたわけだからな。そもそも「啓蒙の弁証法」は「理性の弁証法」とも言い替えられそうだし。
 それもあるが、カントが純粋理性にとどまることなく、実践理性(善意志)へ、更には判断力(趣味・共通感覚)へと思考を進めたのは何故なのかということを考えていてね。
 要するに、「合理性」に対して理性を対置するだけでは不充分なのではないかと。人間の判断力や共通感覚(コモン・センス)まで考えないと、経済(学)批判は成立しないのではないかと。そういうことかな?
 その通りだよ。もし公人・公僕たちの公共意識なるものがさまざまな不祥事の温床になっていたのだとしたら、質問した野党議員も方向がちがうだけでレベルは竹中などの民営化推進派と同じだからね。
 それはそうだが、俺たちは戦術的に亀井静香たちを応援しているわけだろう?
 まあね。しかしそうは言っても経済(学)批判は根源的でなくてはならないということさ。結局、郵政民営化をめぐる議論がつまらないのは、反対派の批判がお粗末だからなんでね。
 いま頃そんなこと言っても遅いよ。いまはとにかく郵政民営化法案を葬り去ることだよ。君だってこの前は理屈はどうでもいいと言っていたじゃないか。
 俺たちは外野だからね。今回俺が言っているのは原理的な話さ。しかし詳細はまた改めてだな。


2005/07/27(対話-79) 経済と理性

 前回の「戦争と理性」に続いて、今回は「経済と理性」か。
 そうだ。「日経」は「理性を麻痺させる戦争の本質」などということを書いていたが、俺としては理性を麻痺させるのはむしろ経済事象の方ではないかと思っていてね。
 経済と理性は並存しうるんじゃないのか? 経済の停滞、つまり不況や恐慌が理性を麻痺させるということなら分からないではないが。いまではもう死語なのかもしれないが、「失われた10年」と言われた日本の長期停滞が、日本人の理性を麻痺させてきたことはたしかだろうが。
 「失われた10年」という言葉はもう死語かもしれないが、それは「失われた15年」とか「失われた20年」になりつつあるからなんじゃないのか? というか、「失われた10年」なんかよりはるかにひどい時代がやってきそうだという予感が、その言葉を死語たらしめたのかもしれないよ。
 そうかもね。それから「失われた10年」という言葉には、10年にわたって日本のマクロ政策当局は無為無策だったという意味もあるのだろうが、むしろ日本人は集団として「ニュー・エコノミー」(これも死語?)と「経済のグローバル化」への対応・適応を怠ってきたというニュアンスが強いからね。
 そうだな。村上龍の場合なんかは後者の意味あいが強いよね。
 「朝日」や「日経」もそうだろう。というか、「失われた10年」自体、メディア語という感じが強い。何を言っているのか分からないからこそ広く使われたんじゃないのか? 何を言っているのか分からないのに批評性だけは具えていそうに見えたからな。
 そうだな。誰が「失わせた」にせよ、少なくとも自分ではないというような・・・。

 それで、経済が理性を麻痺させるというのはどういうことなんだ?
 「失われた10年」という言葉がまさにそうじゃないか。その言葉を発している主体も対象もはっきりしていないのに、そういう言葉を好んで使うというのがそれだよ。
 君だって使っていたじゃないか。
 たしかに。ただ俺の場合は、橋本内閣が行なった消費税率引き上げに象徴されるマクロ政策のジグザグがもたらした経済の停滞のことを言っていたつもりだけどね。
 つまり日本人の集団的なネグレクトのことを言っているのではないと?
 そのつもりだが、90年代はじめに「構造不況」といった言い方がもてはやされて、日本社会の経済的基盤を改革して行かないと不況を脱することが出来ないというような議論が世論の主流みたいになって行ったじゃないか。で、そうした世論が政策当局に大胆なマクロ政策を採用することを躊躇させるように作用したという意味では、日本人の「集団的な罪」もないわけじゃない。
 そもそも経済の現象は集団的な現象だからね。
 「合成の誤謬」と言われるのがそれだよな。しかし俺は「合成の誤謬」が理性の麻痺の現われだと言っているわけじゃないよ。
 分かってるよ。「合成の誤謬」はパニックみたいなものだから。というか、ミクロ経済主体の「合理的」な対応が不況を深刻化せしめるということだから。
 そう。需要不足は「集団的な罪」ではない。問題は、速水前日銀総裁などが「インフレ目標政策は構造改革を遅らせる」とか、「金融緩和はモラルハザードをもたらす」といった発言をした時に、それを受け容れてしまうような世論の状況があったということだよ。

 それもそうだが、小泉内閣の「改革なくして景気回復なし」とか「改革なくして成長なし」といったキャッチ・フレーズを、日本国民の多くは受け容れたわけだからな。たしかにそれは理性の麻痺の現われかもな。
 そうだ。しかしもちろんそれだって「集団的な罪」ではない。
 経済の現象に「集団的な罪」なんてあるのか?
 ないと思うよ。比喩的な言い方だよ(笑)。そこに「罪」が生まれるとすれば、失業者の増大とか雇用の不安定化とかそういうものが賃金奴隷制度を強化する場合だろう。
 なるほど。それが君の言う理性の麻痺なのか?
 そうなんだが、そのことをここで問題にしたいわけではない。ここで問題にしたいのは、橋本内閣以来(中曽根内閣以来と言うべきだろうが)進められてきた行財政改革や構造改革や規制廃止や様々な民営化が、雇用とモラルと社会の液状化・不安定化を確実にもたらしたという因果関係の方でね。
 なるほど。そういうことね。ネオ・リベラリズム(新自由主義)がもたらした問題ね。しかしそれは経済の問題というよりも現在の世界政治の問題と言うべきなんじゃないのか?
 そうでもないさ。というのも、この問題を最も本質的なレベルで(新古典派経済学批判として)提起したのは、ポール・クルーグマンやジョセフ・スティグリッツといった経済学者たちだからね。読んだことはないが、『合理的な愚か者』という本を書いているノーベル賞経済学者のアマルティア・センもそうなのかもしれない。
 アマルティア・センは「人間の安全保障」ということを言っているらしいね。
 らしいな。『公正としての正義』のジョン・ロールズとも深い関わりがあったようだしな。
 アメリカのオールド・リベラリズムの伝統というのは大したもんだな。
 フランスの社会学者、ピエール・ブルデューが『市場独裁主義批判』(藤原書店)などでリベラルとかリベラリズムと言う場合には「個人」や「個人主義」という否定的な意味で言われるのとは伝統のちがいを感じるよ。

 ヨーロッパではリベラリズムの対概念は共和主義(リパブリカニズム)なのか?
 ややこしいこと訊くなよ(笑)。ただ、「個人」(私的自由の個人主義)と対をなすのが「市民性」(公的自由の共和主義)であるということは言えるだろう。ともかく、中曽根内閣以来以来のネオ・リベラル政策が日本社会の根幹を掘り崩してきたということがようやく理解されつつあるらしいということだよ。
 しかし日本でアノミーの蔓延が自覚されて、「リスク社会」とか「ネオ階級社会」とか「希望格差社会」の到来ということが言われるようになったのはつい最近だよね。
 遅いよね(笑)。クルーグマンなんかとっくに警告を発していたのに。
 日本では森永卓郎などの「日本をハゲタカファンドに売り渡すな」といった議論だとか、文化左翼の「反グローバリゼーション」が目立っていたぐらいだもんな。それも理性の麻痺の現われなのか?
 日本の経済学(者)がお粗末だったということだよ。
 じゃあ君の言う理性の麻痺ってどういう意味なんだ?
 経済活動の安定的基盤はモラルと規範であることを経済学が説得的に語ってこなかったことさ。
 ピエール・ブルデューの「ネオ・リベラル政策は莫大な社会的損失を生み出す」というやつか?
 ひとつはそれだよ。経済学者の小野善康なんかは、失業がもたらす経済的コストのことをさかんに言っていたから、いいところまでは行っていたんだよ。
 何かが欠けていたのか?
 戦後の日本を設計したのは占領軍のニュー・ディーラーたちだったから無理もないんだが、経済活動が生み出す暴力と破壊を防ぎうるのは人間の理性なのだということをちゃんと言ってこなかったことだよ。
 なるほど、そういうことか。なんのための経済学かということね。
 そう。言い替えれば、誰のための経済学かということさ。

 まさかプロレタリアのための経済学とか言い出すんじゃないだろうな(笑)。
 そう言ってもいいんだよ(笑)。しかし俺は左翼ではないから、国民のための経済学、あるいは市民のための経済学という言い方をするけどね。
 少なくとも資本家や投資家のための経済学であってはまずいのだと?
 そういう意味じゃないよ。経済が何をもたらすかを経済学がきちんと説明すればいいんだよ。経済活動は生存のために不可欠であること。またそれはある段階から利益を生み出すようになること。そして近代の国家・社会においてはそれを生み出すのは国民全体であること。とは言っても経済活動は賃金奴隷制度と階級社会を生み出すこと。更には経済は不況や恐慌といった破壊や暴力を伴なうこと。そうした経済活動全般に関わる事柄を、それを担う国民あるいは市民に理解させること、それが経済学(者)の仕事だということさ。
 経済学者はそれをしてこなかったのか?
 そうは言ってないよ。スミスもマルクスもケインズもそういうことをしてきてはいるんだよ。しかしある段階からクルーグマンが『経済政策を売り歩く人々』などで述べているようなことが起こっているんだよ。そういうことを知らしめるのも経済学(者)の仕事だということだよ。
 なるほど。理性の麻痺というのは、要するに経済学の機能不全ということか。
 とりわけ日本においてはね。ヨーロッパも似たようなものだろうが。
 ブルデューにしてもグローバリゼーション下の経済現象を経済学的に理解しているとは思えないからね。ブルデューは文化左翼的な臭みが強すぎるよ。
 まあね(笑)。それにジークムント・バウマンの『リキッド・モダニティ』(大月書店)に見られるような、近代の「解放」は無制限の「個人化」をもたらす、という認識がブルデューの場合は希薄だよね。

 バウマンのその認識は正しいのか?
 ある意味では正しいと思うよ。
 ある意味では、とは?
 現実に近代はそういう風に進んで来たということだよ。
 だからこれかもそうなのか?
 そんなこと俺に分かるわけがないよ。俺にかぎらず誰にも分からないよ。神様は別だが。
 じゃあこれからもそうなるとはかぎらないわけだろう?
 かぎらないが、現にそういう風に進んで来たんだから、これからもそういう風に進んで行く可能性が高いということだよ。東浩紀風に言うと「動物化するポストモダン」だよ(笑)。
 たしかにソ連の崩壊というのがあったからな。しかし俺としては、マルクス主義はともかく、近代における社会主義・共産主義のプロジェクトがソ連の崩壊をもって終ったとは思わないよ。
 なるほど。社会主義・共産主義は依然として「未完のプロジェクト」なんだと。経済は全面的に統治しうるとするのがマルクス主義だったとすれば、経済を部分的に統治するという考え方もあっていいんだと。
 というか、それしかありえないだろう? 人類がソ連崩壊から学びうる最大の教訓はそれだよ。
 クルーグマンが言いそうなことを言うじゃないか。たしかに、フランクリン・ルーズベルトやリンドン・ジョンソンが行なったことはケインズ社会主義とでも言うべきものだったわけだからな。
 さっき君が言った戦後の日本を設計したGHQのニュー・ディーラーたちもね。
 そうだね。

 要するに、近代は資本主義と「個人」を解き放ったわけだが、それは無限とも思える(思えた)経済発展の解放であったと同時に、臣民・市民・国民という人間のあり方の解体過程でもあった。経済的な成長・発展の解放によって賃金奴隷制度や恐慌も野放しにされた。しかし人間の理性は経済を(部分的に)統制しうるとするケインズ経済学を生み出した。そのひとつのモデルがニュー・ディールと戦後の西側のケインズ主義だったのだと。従って、ジークムント・バウマン的認識は必ずしも正しくないのだと。もし正しいのだとしたら「人間をやめよう」と言うのと同じことなんだと。今回の結論はこんなところかな?
 いささか乱暴だが、基本的にはいま君が言った通りだよ。人間の理性は信用できないから市場に委ねようというのでは「人間をやめよう」というのと同じだよ。要は必然的で不可避な事柄と、人間が介入して是正しうる事柄とを、経済学も社会学も政治学も倫理学も究明して行かなければならないということだよ。そしてそれが国民あるいは市民のものとならないかぎり、理性の麻痺は終らないということだよ。
 そういうわけで、まずは郵政民営化法案を葬り去れと(笑)。
 そうだ。理屈は「郵貯をハゲタカに渡すな」というようなトンデモ話でもなんでもいいんだよ(笑)。野田聖子でも堀内光雄でも古賀誠でも亀井静香でも、民営化に反対なら誰でも応援するよ(笑)。全公共部門の民営化を目指すネオ・リベラリズムは、人間の「個人化」と原子化を徹底的に押し進めるという意味では、かつてのソ連の農業集団化(即ち全ロシア農民の原子化)と同じような結果をもたらすにちがいないよ。従って、理屈はどうであれ、これに反対するのは方向としては正しいということだよ。
 というか、原子化された「合理的」な「個人」へと撤退すること(即ち「人間をやめる」こと)を拒否するかぎり、そうすることは国民あるいは市民としての義務と言うべきだろう。
 その通りだ。堀内光雄や綿貫民輔たちの行動は日本における21世紀最初の「市民的不服従」と称えられることになるかもしれないね。そう言われるのが彼らの本意ではないにしても・・・。


2005/06/29(対話-78) 戦争と理性

 しばらくだな。元気か?
 ぼちぼちだよ。しかし6月だというのに、きのうの暑さはひどかったな。おかげでゆうべは寝不足だよ。ところでなにか面白い話でもあるのか?
 特に面白い話ではないんだが、きのうの「日経」の「春秋」に、「60年余り前のサイパンの悲劇は理性をまひさせる戦争の本質を伝えて余りある」という文章が出ていたじゃないか。
 いかにも日本のメディアが書きそうな紋切り型の文章だな。
 君はこの文章に見られる考え方をどう思う?
 つまり「理性を麻痺させる戦争の本質」という考え方をどう思うか、ということかな?
 そうだ。
 理性を麻痺させるのはなにも戦争にかぎらないよ。アーレントやアドルノに言わせれば、大衆社会および大衆社会がもたらす文明の野蛮化こそが理性を麻痺させる、ということになるだろうし。
 つまりそういう「日経」的な考え方においてこそ理性の麻痺が見られるんだと?
 紋切り型の思考というのは理性を使わない思考だからね。つまりその「日経」の文章こそ思考を放棄していることの端的な現われだということだよ。
 サイパンにおけるバンザイ突撃や集団自決には理性の麻痺は見られないのか?

 バンザイ突撃や集団自決はアッツ島玉砕以来、どこでも見られたことじゃないか。栗林中将がバンザイ突撃を禁じて敵の出血を強いることを命じた硫黄島の場合は別だろうが。
 「日経」みたいなメディアは栗林中将の命令さえ理性の麻痺と言いそうだな。
 それはちょっと違いそうだよ。その「日経」の記事の場合には、バンザイ突撃や集団自決などに見られる理性の麻痺をもたらしたのは、「「生きて囚虜の辱めを受けず」という『戦陣訓』の一節である」と書かれているからね。ところで、南雲機動部隊の南雲忠一中将が自決したのもサイパンだったよな。
 あれはひどい話だな。機動部隊の指揮官がサイパン島の陸戦隊とは。
 ミッドウェイ敗戦の責任者だからな。
 それを言えば最高責任者は司令長官の山本五十六だろう。しかし彼は既に戦死していたからな。それはともかくとして、「日経」は『戦陣訓』に理性の麻痺の原因を押しつけたかったのかな? つまり『戦陣訓』を作った東條英機が日本人の理性の麻痺をもたらしたのだと。
 ひとつにはそれがあるのかもしれないね。東條は大東亜開戦時の首相で、しかも「A級戦犯」でもあるわけだから、東條にすべての責任を押しつけてしまおうと・・・。
 しかし、そういう発想こそが理性の麻痺の現われなんだろう?
 理性の麻痺と言うより、思考放棄・思考欠如と言った方がいいだろうな。

 ところで、画家の藤田嗣治が「サイパン島同胞臣節を完うす」という絵を描いているよね。
 そうだな。あれは日本の戦争画を代表する傑作だろうな。
 彼の理性は麻痺していなかったのか?
 思考を放棄したメディアにかかると、あれも「狂気の芸術」と言われそうだが、「臣節を完うす」という標題のアイロニーを含めて、藤田嗣治の理性は完全に醒めていたと思うよ。
 理性が麻痺していたらああいう絵は描けないよね。
 もちろんさ。つまり「理性を麻痺させる戦争の本質」という考え方は間違っているということだよ。理性の麻痺をもたらすのは思考放棄だから、それはいつでも起こりうる。戦争とは直接には関係がないよ。
 なるほど。そうすると、火野葦平の小説『陸軍』の場合はどうだ?
 藤田嗣治の場合は画家としての理性が完全に醒めているという印象が強いが、火野葦平の場合はそういう醒め方とは違うよね。いずれも主題が「臣節」であるには違いないのだろうが、火野葦平の方は日本人の「臣節」の内部を描こうとしているよね。
 そこに思考放棄は見られないのか?
 ある種の思考放棄が見られるとしても、俺は藤田嗣治より火野葦平の方が好きだよ。
 日本人は戦争をしていたわけだからな。
 そうだ。それに理性が麻痺していたら、日本人の「臣節」をあそこまで描けるわけがないよ。
 まあそれは言えるだろうな。


2005/04/04(対話-77) 無為の共同体

 「無為の共同体」と言うと、まるでジャン=リュック・ナンシーだな。
 まるでじゃなくて、まさにジャン=リュック・ナンシーだよ。つまり今回はジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』(以文社)について話をしてみようと思ってね。
 へえ。最近読んだのか?
 そうだ。ナンシーなんて名前がなんだか女みたいだし、それにデリダ系の人みたいで文章がやたらに読みにくそうだからこれまでは敬遠していたんだが、『複数にして単数の存在』(松籟社)というハンナ・アーレントが書きそうな本を出している以上、もう読まないわけにはいかないと思ってね。
 『自由の経験』(未来社)という本も出してるよね。
 その本はカントやハイデガーの自由について書かれたものらしいから、これから読もうと思っているんだが、まずはいちばんポピュラーな『無為の共同体』から行こうと思ってね。
 そう言えば、君は前にこの「つぶやき」でモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』(ちくま学芸文庫)について触れたことがあったな(2002/12/28)
 そうだった。君も知っているかもしれないが、そのブランショの本に収録された文章(1983)はナンシーの『無為の共同体』に触発されて書かれたものだからね。
 知ってるよ(笑)。で、どうだった? ジャン=リュック・ナンシーのその本は?
 まだ「無為の共同体」と題された第1部しか読んでいないんだが、やっぱりむちゃくちゃ面白いよ。予想された通り、ハンナ・アーレントも参照されているし(P.39)。

 ナンシーはアーレンティアンなのか?
 どうかな? 違うと思うよ。梅木達郎が『脱構築と公共性』(松籟社)で行なっている対比を借りると脱構築派、つまりデリダ派だよ。と言うか脱構築派のなかのアーレント派とは言えるかもしれない。ナンシーの同僚のフィリップ・ラクー=ラバルトもそうなのかもしれないが。
 ナンシーは「公共性」や「公的領域」という言葉も使っているのか?
 いや、それは使っていない。「活動(行為)」に当たる言葉も使っていない。つまり思考の道具だてというレベルでハンナ・アーレントに影響を受けているわけではないということだ。
 そうするとアーレント派というのはどういうレベルでなんだ?
 思考の道具だてにおいてではなく、思考の領域において、ということだよ。
 具体的に言うと?
 ひとことで言えば、人間の共同性あるいは複数性というあり方を思考するということだよ。アーレントがなんとかして思考しようとした領域が、人と人の「あいだ」とか「世界の介在的(in-between)空間」であったことは明らかなんだが、アーレントの場合は最後までカントの判断力論にこだわったからね。
 つまり最後まで「主体」というものを所与とし続けたと。
 多分ね。存在論のレベルではハイデガー以前的カント主義というところがあったからね。
 アーレントは西欧哲学は真理を追究するものだと言い続けたよね。
 だから、アーレントは西欧哲学をいわば捨てて、みずからの領域を政治理論へと限定したわけだ。そのかぎりでアーレントは「主体主義」的「本質主義」を捨てたと言いうる。しかしジャン=リュック・ナンシーに言わせると、そこがアーレントの中途半端なところ、ということになるのかもしれないが。

 なるほどね。そうするとナンシーは人間の共同性の存在論、複数性の存在論をやっているということだな。しかしそうすると人間の「公的領域」、「社会的領域」というアーレント的な区分もなくなるのか?
 多分ね。アーレントの場合はカントだって『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』という分け方をしているではないかという頭があったのかもしれないけどね。
 しかしカントの場合のそれは暫定的な区分なのであって、カントが構想する形而上学においては統一されるはずのものだったんじゃないのか?
 カントの意図からすればそうなんだろうし、ハイデガーもカントの思考・志向をそういう風に捉えていたと思うよ。まあそういうレベルではアーレントはハイデガーの弟子とは言えないということだろう。逆にジャン=リュック・ナンシーの方は典型的な左派ハイデゲリアンと言えるだろう。
 しかし、アーレント的な意味での政治を存在論的に思考するのは危険な気がするね。
 「民族の精神」にコミットした1933年のハイデガーの例があるからな。
 それもあるが、「真理」と「意見」を明確に分けて、西欧哲学の伝統から政治領域を解放しようとしたアーレントの努力はどうなるんだ、ということにもなるじゃないか。
 そうだな。ジャン=リュック・ナンシーの行き方がプラトン的哲人政治みたいな行き方にならないという保障はないからな。ハイデガーでさえおかしな方向へ行ったわけだから。
 とは言え、アーレント的な区分がベストとも言えないかもしれないよね。
 そう。アーレント的な行き方だと政治の領域には「真理」はないということになって、つまりすべての「意見」は相対的だということになって、意見ではなく力がものを言うということにもなりかねない。

 たしかにアーレント的な政治においてはそういうことがありうるよね。アーレントへの代表的な批判としては、さっき言った「公」と「私」の厳格な区分に対する、主としてフェミニズムの側からの批判と、政治におけるこの相対主義への批判の2点が挙げられるよね。
 そう。だから前者はアーレントではなくハーバーマスの公共性へと付きがちだったりとかね。セイラ・ベンハビブなんかがそうなんじゃないか? まあそういうこともあるから、ジャン=リュック・ナンシーに注目するのもそれなりに意味があると思うわけだよ。
 たしかにね。じゃあ『無為の共同体』へ行こうか。
 そうしよう。但し、今回はざっと輪郭に触れるという以上のことはやらないよ。それでまず輪郭ということで言えば、訳者の西谷修が「<分有>、存在の複数性の思考」と題されたあとがきを書いているんだが、これが読者をミスリードする内容でね。
 どういう風に?
 西谷修はあたかもジャン=リュック・ナンシーのこの本はナショナリズム批判という文脈で読まれるべきであるというような書き方をしているんだが、そうではないということだ。
 ナンシーのモチーフはナショナリズム批判ではないんだな?
 まったく違うとも言えないんだが、やっぱり違う。そのことは最初の1ページを読めば分かる。この本の書き出しは、「現代世界に関する証言のうち最も重要で最も苦痛にみちたもの・・・・それは共同体の崩壊、解体、あるいはその焚滅をめぐる証言である」(『無為の共同体』以文社P.5)というものだ。
 たしかに方向が逆だな。

 それに続く文章は、「「共産主義」という語には、さまざまな社会的分裂の彼方に、また技術-政治の支配に対する隷属の彼方に・・・・各人の死の発育不全、つまりは死がもはや個人の死でしかないために支え切れない重みを担い、無意味のなかに崩れ落ちてゆく、そうした死の発育不全の彼方に、共同体のありうべき場を見出そう、あるいは再発見しようという願望が、表徴されている」(同)というものだ。
 なるほど。かなりナショナリスティックな傾きの強い文章だな(笑)。
 ナショナリスティックであると同時に、非常に左翼的・コミュニスト的でもある(笑)。
 それが書かれたのは何年だ?
 書かれた年は知らないが、発表されたのは1983年だ。
 なるほど。あの空虚な70年代のあとで、しかもイギリスではマーガレット・サッチャーが新自由主義路線を押し進めようとしていた時代だな。
 そうだ。アメリカではレーガンがサプライサイド理論(ブッシュ・シニアはそれをヴードゥー経済学と呼んだ)を採用して金持ち優遇、貧者切り捨ての新自由主義的政策を進めていた時代だ。
 日本では中曽根の民営化路線が始まろうとしていた時代だな。日本が米英と違っていたのは、米英ほど経済がひどい状態にはなかったということだが、それにしても西谷修ともあろう者がジャン=リュック・ナンシーのモチーフを理解していないというのはどういうことなんだ?
 『無為の共同体』の以文社版が出たのは2001年6月だから(それ以前はタイトル論文一本を収めた訳本が朝日出版社から出ていた)、そのあとがきはその頃に書かれたものだと思う。ということは、ジャン=リュック・ナンシーのその後のテクストに影響されたとも考えられるが、どうも本質的なところでジャン=リュック・ナンシーのモチーフを理解していないと思われる。

 どうも日本のリベラル派の連中は新自由主義の破壊的な本質が分かっていないらしいな。カレル・ヴァン・ウォルフレンや野口悠紀雄に馬鹿な考えを吹き込まれているんじゃないのか?
 それはありうる。ホルクハイマー/アドルノにしても、彼らを毛嫌いしていたアーレントにしても、「人間の解放とは社会からの解放ではなく原子化からの社会の解放である」(M. Horkheimer)という一点においては完全に一致していたからね。つまり、西谷修を含む日本人は60年代反乱の反動でもあった70年代の空虚からなにも学ばなかっただけでなく、中曽根内閣以来の新自由主義=構造改革路線をむしろ支持してさえいるように思われる。そのあたりの事情が西谷修によるナンシー誤読の底流にあるんじゃないのかな。
 であるとしたら、恐るべき民度の低さと言うべきなんじゃないのか(笑)?
 分からないよ。と言うか謎だよ。あるいは世界七不思議のひとつだよ(笑)。
 じゃ、『無為の共同体』の内容に行こうか。
 それはまた改めてだな。今回は最後に、上の引用に続く決定的に重要なナンシーの論点を引いておこう。ここを読めばナンシーの第一のモチーフが「個人(主義)」批判にあることは誰でも分かる。

>「共産主義の理想の基盤そのものが、今やきわめて問題の多いものであることが明らかになってきた・・・・その基盤とはすなわち、人間、それも生産者として定義された人間・・・・そして基本的に、自らの労働とその諸作品という形で自分自身の本質を生産する者として定義された人間である」(P.6)
>「個人は、共同体の崩壊という試練の残滓であるにすぎない。個人(は)その本質の規定からして・・・・原子であり、分割しえないものである・・・・(個人が)ある分解作用の抽出結果として生じたものだということは明らかである」(P.8)
>「世界は単純な原子の群から作られているわけではない。そこにはクリナメンがなければならない。一方から他方へと向かう、一方による他方の、一方から他方への傾向ないし性向がなければならない」(P.9)
>「個人主義とは、問われているのは一つの世界なのだということを忘れた辻褄の合わない原子論である。・・・・主体の形而上学とはすなわち、個人あるいは全体主義国家の形而上学であり、絶対的対-自の形而上学だが、それはまた、絶対的なるもの一般の形而上学、完全に分離され、区別され、関係というものをもたずに閉じられた絶-対者としての存在の形而上学だということ」(P.10)
>「関係とは(共同体とは)、もしそれがあるとすれば、絶対的内在の自己充足をその原理においてーーそしてその閉鎖上ないしは限界上でーー解体するものにほかならない」(P.11)



2005/03/10(対話-76) 自由、主権、立法

 この前(3/2)西武鉄道の堤義明が証券取引法違反容疑で逮捕されたじゃないか。この件について君としてなにか感想はあるか?
 新聞に書いてある以上の事実関係を知らないからな。しかしまあひとつ言えるとすれば、堤義明は先代の康次郎とは基本的に違うタイプの人間だったらしい、ということかな。
 それは別人格なんだからあたり前の話だろう。それにいまや「ピストル堤」と言われた堤康次郎みたいな人間が、暴力や犯罪の世界ならともかく、ビジネスの世界で生きていけるご時世でもないだろう。ライブドアの堀江社長みたいな人間がもてはやされる時代だからね、いまや。
 堀江貴文と堤康次郎が別のタイプと言えるかどうかは分からないよ。手法は違うように見えるかもしれないが、堀江貴文が堤康次郎の現代版でないとは言い切れないだろう。堀江貴文が堤康次郎クラスの乗っ取り屋にならないとはかぎらないわけだし。
 たしかにね。やってることは同じようなことかもしれないからな。堀江社長は2代目の堤義明とは違って創業者なんだし。しかし今回は堀江社長のことではなく、堤義明のことを訊いているんだけどね。
 デビッド・リースマンが『孤独な群衆』で書いている類型を使うと、康次郎は典型的な「内部指向型」人間と言えるんじゃないか? 義明も父親に倣おうとしたと思われるふしはあるが、やっぱり無理だったんじゃないかと思うよ。だから義明は「内部指向型」を目指しながらも、結局は挫折した「他人指向型」と言えるんじゃないのか? もちろんこれはメディアなどを通じて受けた印象でしかないが。
 当人を直接に知っているわけではないからね。しかし「ピストル堤」や「強盗慶太」のような明治生まれの事業家が、「他人指向型」とは反対の「内部指向型」人間だったとは言えそうだね。

 一身の独立ということを言ったのは福沢諭吉だったわけだが、それはアメリカのカーネギーやロックフェラーにも通じる人間類型への要請でもあっただろう。もちろん福沢が詐取・横領・強奪・搾取による資本蓄積を奨励したはずはないが、当時は世界で帝国主義化が進んで行った時代でもあったわけで、明治という時代が「内部指向型」のモッブを大量に生み出したということは言えるだろうな。
 与謝野晶子や鈴木真砂女みたいな女たちを生み出した時代でもあるからね。1906年(明治39年)生まれのハンナ・アーレントだって「内部指向型」モッブの一変種と言えそうだし。アメリカのブルーストッキング(青鞜派)ナンバーワンと言われたメアリー・マッカーシー(小説『グループ』の作家でアーレントの親友)なんかも同類だよね。ゲルマン的映像作家のレニ・リーフェンシュタールなどもそうなんだろうが。
 まあね。もちろん「自己責任」というような考え方は彼らには毛ほどもなかったと思うが・・・。話を戻すと「ピストル堤」や「強盗慶太」は向こう見ずな冒険家タイプの企業家であって、彼らは成功しようが失敗しようが言い訳など考えたこともない人間だったことはまず間違いないだろう。言ってみれば、彼らはみずからの責任において黙ってビールか毒を飲んだ(なにごとかをなした)ということだよ。
 帝国主義時代というのはアーレントも言うように国民国家とその規範が没落・崩壊して行った時代だったわけだが、そのことが彼らのようなモッブを生み出したということだな?
 そうだよ。しかし彼らの中にはヒトラーやスターリンのような人間も含まれていたわけで、彼らが言い訳など思いもよらない自律型の人間だったとは言っても、だから何なのだということにもなる。自由が主権と結びついて解放されただけだったら、始皇帝やジンギスカンみたいな人間が生まれるだけだ。もちろん始皇帝やジンギスカンがなした事跡を善悪という基準で批評してみてもほとんど意味がないが。

 堤康次郎の自由・自律も主権的発想と結びついていたのかな?
 彼にかぎらずワンマン経営者と言われる人びとの多くはそうだろうと思うよ。そもそもビジネスの世界というのはホッブス的=競争的な世界なんだから、それはいたし方のないことでね。自由人と言われるアテナイの市民たちだって、自己の生存を維持する場(オイコス)においては「独裁者」だったわけだから。
 なるほど。経済の世界においては人間的な自由はないんだと。
 そう。赤ん坊が自由でないのと同じことだよ。あるいは子供に自由に生きろと言っても無理な話だということだよ。それが人間の生物学的生存の世界、つまり経済の世界の掟というものでね。
 だから経済的世界の掟を政治的世界にも広げようという新自由主義は駄目なんだと?
 まあね。俺がフランクリン・ルーズベルトやリンドン・ジョンソンの正統派リベラリズムを高く評価するのは、彼らが経済的世界を政治のコントロール下に置くことで政治の領域を拡大しようとしたからなんでね。要するに公正さなしには人間的自由はないということを彼らは知っていたということさ。
 しかしアーレントやメアリー・マッカーシーはリンドン・ジョンソンが大嫌いだったみたいだよ。
 それはそうだろう。俺だって60年代においてはジョンソンは"敵"だと思っていたよ。なにしろベトナム戦争を泥沼化させてアメリカの政治的信用を失墜させた張本人だからね、ジョンソンは。しかしだからと言って、貧困との戦いによって「偉大な社会」を目指したジョンソンの社会民主主義的リベラリズムまで否定するわけには行かない。まあジョンソンはみずからの田舎者的反共主義につまずいたということだな。
 それにジョンソンの時代は60年代反乱とも重なっていたからね。
 そう。ある意味で60年代反乱を生み出した土壌はケネディとジョンソンの正統派リベラリズムであったとも言えるわけだが、結局彼らはキューバとベトナムという外的な要因につまずいたということだ。

 1917年のケレンスキー政権みたいなものだったのかな?
 それは言えるかもね。だからその後の世界の為政者たちが人びとを政治の領域から遠ざける新自由主義を好むというのもある意味では理解できる。しかしいま世界中で見られるような、メディアやインターネットを通じての"世論のようなもの"を公共的ななにかと見るのはまったくの幻想であり、端的に誤まりだよ。
 「ホリエモン」みたいな存在が公共性であるわけはないからね(笑)。もっともハーバーマスの『公共性の構造転換』によれば、それも公共的なものということになりかねないが。
 何なんだろうね、あれは(笑)。ここで再び話を戻すと、堤康次郎は衆議院議長にまでなった人だから、政治的領域=公的領域についてのある種のセンスを持っていたと思われる。しかし彼自身は基本的には私的=経済的領域の人だったということだろう。そのかぎりで彼は「内部指向型」の自律的な個人だったわけだが、しかしそれはカント的な「実践理性」や「善意志」に裏打ちされたものではなかったと。 
 なにしろ「ピストル堤」と言われていたぐらいだからね。
 そういう世評はあてにならないよ。西武百貨店の堤清二(辻井喬)がどこかで堤康次郎のことを書いていたのを読んだ記憶があるが、ひとかどの人物ではあったのかもしれない。しかしそれは武装共産党の田中清玄委員長がそれなりの人物だったというのと同じレベルの話だけどね。
 近代的なモッブだよね、どっちも。それを言えば俺たちもモッブみたいなもんだよね。
 まあね。しかしモッブであるかどうか、あるいは「内部指向型」か「他人指向型」かということは本当の問題ではない。本当の問題は「汝の意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」(『実践理性批判』)というカント的な格律(Maxime)を生きるかどうかでね。
 要するに法的人格たれと。
 そうだ。善人か悪人かさえ問題ではない。人間と理性の究極の根拠としての自由の命運は、われわれがカント的な法的人格として政治的領域=公的領域を形成しうるかどうかにかかっているんだと。
 つまり、新自由主義と"世論"幻想を打ち破れと。
 そういうことだ。お仕着せの「パンとサーカス」を拒絶せよと(笑)。


2005/02/24(対話-75) 皇太子殿下の会見

 皇太子は23日に45才の誕生日を迎えたそうだね。それに先立って東宮御所で記者会見を行なったそうだが、君は今回の皇太子の会見をどう思った?
 いやもうご立派と申し上げるしかないよ。昨年5月のいわゆる「人格否定発言」以来、それに対する天皇陛下を含むいろんな人のいろんな発言、それからマスコミや週刊誌によるさまざまな煽動・憶測報道などがあったわけだが、それらに対して沈黙を守られたというのがまず凄いよ。日本国の象徴という立場になられる方に相応しい振るまいと言うべきだろう。
 今回の発言内容についてはどうだ。
 有り難い話だよ。俺はドロシー・ロー・ノルトという教育学者(?)のことはまったく知らなかったんだが、皇太子殿下が引用されたドロシー・ロー・ノルトの詩は本当に素晴らしいね。われわれ日本国民は、殿下が会見で引用された部分をわれわれに贈られたお言葉として受け止めるべきだろうね。
 この前君と学校と教育をめぐる話をしたわけだが、子供を育てるに当たっての究極の言葉を皇太子から教えてもらった感じだな。
 まさにそうだね。私心を排するが故の殿下の長い沈黙も素晴らしかったが、口を開かれたらこういうお言葉が出て来るというのは真に驚嘆に値するね。「・・・ 困難な状況にある人々に心を寄せて、国民と苦楽を共にしていきたい ・・・」(『日経』2/23より)というお言葉が文字通りのものであることを実感するよ。
 しかし君はアーレンティアンなんだから、君自身は共和主義者なんだろう?

 そうだよ。しかし俺がアーレントと違うのは、俺はユダヤ人ではなくて日本人だということでね。だからそれは天皇陛下が日本国の象徴であることを支持することとは矛盾しない。北一輝も天皇機関説の美濃部達吉も陛下を崇敬していたじゃないか。北一輝はちょっと怪しそうだが。
 俺としてはそこは理解しがたいんだが、それは機会を改めてやることにしようか。少なくとも戦後憲法下では日本は君主制国家ではありえないわけだからね。
 そう。いまの日本は法が支配する国家なのであって、マスコミや政治家たちが勘違いしているような、世論やmassが支配する国家などではないということだよ。そういうことをいちばん分かっておられるのが、ほかならぬ皇太子殿下なのではないかな。
 それは言えるかもしれないね。皇太子が引用したドロシー・ロー・ノルトの「子ども」という詩が生み出そうとしているものこそ、共和主義的な徳であるとも言えそうだからね。
 いやまさに。君にしちゃいいこと言うね。ドロシー・ロー・ノルトが称揚している人間的属性(自信、忍耐、評価、公正、親切、信頼、愛情)こそ共和主義的な徳だからね。しかもそれは「・・・ 国民の幸せを願って国民のために何ができるかを考え、実践していこう ・・・」(『日経』2/23)とか、「・・・ 自分が何をやりたいかという以上に、自分が何をすることが国のため、国民のためになるかということを模索する ・・・」(同)といった殿下のお言葉の基礎にあるはずのものじゃないか。
 たしかにね。「公正」や「信頼」ということを言わずに、ひたすら「自由」を言いつのるアメリカの元首(ブッシュ大統領)とはえらい違いだね。

 革命の伝統という「宝」(アーレント)を失った国家はひどいもんだよ。ブッシュの言う「自由」というのは私的な(所有の)自由であって、公的自由という意味での政治的自由の含みはないからね。
 それに比べると、皇太子の言う「国民と苦楽を共にする」にはひとびとの間における合意とか約束が含意されていそうな感じがするよね。
 その通りだ。アーレントが言うように、自由は他人の存在を必要とするわけでね。ひとりだけの自由、孤独な自由なんてものは自由でもなんでもなくて、単なる勝手気ままということでね。
 そうすると、自己責任というのも実はおかしな言葉なのかな?
 そんな感じがするよ。責任という言葉はもともと「荘子」に由来しているんじゃないのか? いずれにしても社会とか人と人の間の合意あるいは約束から生まれる責務あるいは任務だからね。own responsibilityという言葉はあるらしいが、それだってある合意や約束に照らしてのレスポンスということだろう。つまり責任というのはそもそも法的・政治的・道徳的な概念だということだよ。
 それは政治的な自由の対価みたいなものなのかな?
 というか、合意や約束のないところに自由も責任もないということだよ。「自由は約束ごとであり、人工的なものであり、人間の努力の産物であり、人工的世界の属性である」というアーレントの言葉はそういう意味なんでね。約束と責任を引き受けるところにしか人間的な自由はないということだよ。
 なるほど。象徴天皇制というのは戦後日本国家の根幹にかかわる約束ごとみたいだな。
 そう。というか、一種の革命なんだよ。帝国憲法の改正を「裁可」し、日本国憲法を「公布」されたのは昭和天皇なんだし。しかし、象徴天皇制をそういう意味での約束ごと(原初的で革命的な契約)として引き受けられたのは昭和天皇と今上陛下と皇太子殿下の3人だけなんじゃないかという気がするよ。


2005/02/20(対話-74) 学校は安全な場所?

 この前(2/15)『日経』一面の「春秋」に「それにしてもなぜ「学校」なのか。安全で活気あふれる子供たちの教育の場が社会的なトラウマを抱えた若い犯罪者の標的になる現象に病理の根深さを覚える」という文章が載っていたじゃないか。君はこの筆者の学校認識をどう思う?
 希望と現実認識がごちゃまぜになっているんだよ。かなり前から学校が「安全で活気あふれる子供たちの教育の場」ではなくなっていることはみんな知ってることじゃないか。だからこそ文部省は「ゆとり教育」という方針を打ち出したんじゃなかったっけ。
 というか、そもそも学校は選別の場だよね。
 そうだよ。俺なんか幼稚園に入った時に、ここは戦いとサバイバルの場だと思ったよ。先生に嫌われたり級友たちに仲間はずれにされたりしたらここは地獄だということがはっきり分かったよ。だから俺は学校が「安全で活気あふれる子供たちの教育の場」だなどと思ったことは一度もないよ。
 君自身のことはさておき、俺が言いたいのは学校というのは矯正と訓育と選別の場ではないかということだよ。つまり、そのままでは野獣でしかない存在を社会的な動物つまり人間へと矯正して行く場であるということ、言い換えれば、幼くても危険きわまりない野獣を安全な動物へと飼い馴らして行く場であるということだよ。生徒が野獣であるとすれば、教師は調教師ということになるわけだよ。
 なるほど。調教師の仕事が安全であるわけはないと。
 そう。そんなことはみんな知っているはずなのに、学校で殺人事件が起きたりするとどういうわけかマスコミはわけの分からないことを言い出すじゃないか。学校生活においては表沙汰にならない暴力行為やいじめや排除(仲間はずれ)は日常茶飯事だというのにさ。

 そうだよね。小学生の暴力は幼児のそれとはもう次元が違うからね。小学生の時友達の果たし合いに立ち合ったことがあるが、その時は怖くて震えたよ。口も達者でないと喧嘩には勝てないからね。
 喧嘩もそうだが、いじめだって経験があるだろう?
 もちろんさ。どのクラスにも必ずいじめられっ子というのはいたからね。クラスの番長格のやつに俺自身がいじめられそうになったこともあるし。
 君のことだから、教師にえこひいきされたり嫌われたりしたことだってあるはずだが、それは選別の過程においては必ずあることじゃないのか。
 そういうこともあったな。えこひいきされた時は恥ずかしかったが、悪い気分ではなかった。嫌われた時はまあ当然だろうなと思ったよ。俺をえこひいきした教師は小学4年の時の女の先生で、嫌った教師は5年の時の男の先生だったが、俺は男の先生の方が人を見る目があると思ったよ(^^)。
 君みたいにひねくれた生徒を持った先生はかわいそうだよ。君はどんな先生に対しても表向きは従順な生徒を装うだろうが、腹の中ではなにを考えているか分からない(^^)。
 俺はそれほど複雑な子供じゃなかったよ。というか、俺は逆立ちしてもいい子にはなれないし、またなりたくもないという自分自身の志向が分かったということだよ。とは言っても、学校という戦いとサバイバルの場においてそういうポジショニングで生きて行く目途がついたのは中学3年の時だけどね。
 ずいぶんと時間がかかったもんだね。
 要するに幼稚で世間知らずで頭の悪いガキだったということさ。ここで話を戻すと、もちろん学校は安全な場所であるにこしたことはないんだが、それは当事者たち次第というところもあるんじゃないのか。学校が学校として完結してしまったら、危険は内部化されて行くしかないだろう。

 言っている意味がよく分からないんだが、それは学校といえども世界へと向って開かれていなければならないということかな?
 というか、世界が世界としての意味を持っていればいいんだが、いまの世界というのは言ってみれば無世界的な世界じゃないか。だから学校が学校として完結せざるをえないような状況になってしまっているわけだよ。そうすると選別された者と選別からもれた者という区別が固定化してしまう。選別ということを飼い馴らしとして捉え返して行くようなポジショニングが難しくなっているんじゃないのかな。
 学校や教育を相対化するようなポジションがとりにくくなっているということかな?
 まあね。そもそも校内暴力とかいじめとか教育の危機というようなことが言われ始めたのは70年代だったわけじゃないか。学校が学校として完結し始めたのがその頃だったんじゃないのか。東京都の公立校に学校群制度が導入されたのが67年だよね。恐らくそれは受験競争を緩和するための措置だったと思うんだが、大人たちが制度をいじり始めた頃から学校がおかしくなって来たわけだよ。
 そういうことはあるだろうね。例えば管理や規則を厳しくすればするほど、それに対する反発も大きくなって行くというのは自然なことだからね。
 そういうことは60年代の全共闘運動や高校紛争を踏まえた予防措置として出て来たと思うんだが、一方にそういう恣意的な管理強化があり、他方には70年以降の世界の無世界化・閉域化があったわけだ。恐らくその両面から学校の学校としての完結化がもたらされたのではないかと思うわけだよ。
 しかし世界の無世界化は学校で対応できることではないよね。
 できないだろうね。いまや世界の幻影さえ持てない状況だからね。学校に内部化される危険は、学校が世界への窓になることで回避されうると思うんだが、残念ながらいまはそういう状況にはない。

 前回の話につなげて言えば、国家が没落してひさしいわけだからね。しかしそうは言っても、次善の解決策ぐらいは提出しておいた方がいいんじゃないのか?
 解決策を提出するのは俺たちの柄じゃないよ。だいたい君にしても教育などには興味がないだろうし、俺だって近代日本の学校・教育制度のことなんかなんにも知らないわけだから。
 しかし、教育行政の専門家である文部省や中教審がやって来たことが学校を荒廃させ、危険の温床にしてしまったわけじゃないか。素人だから言えるということがあると思うよ。
 ひとつ言えることはマスコミも政治家たちも、事件が起きたからと言ってあまり騒がない方がいいということだね。騒げば騒ぐほど、まと外れな処方箋によって学校や生徒たちが振りまわされる可能性が高くなるということだよ。ほとんどの場合彼らがやることは対症療法だからね。対症療法はまず副作用をともなうわけで、病気の方は悪くなる一方だろう。
 マスコミも政治家もそれが仕事だからね。
 それだよね、問題は。マスコミは世論を煽って売上げや視聴率を伸ばすのが仕事なんだし、政治家は盲目的な世論が歓迎しそうな発言や議論を有権者に売り込めばいいわけだからね。まさに国家(共通世界を担う共同社会)が没落して「菌」が増殖・繁栄するという前回の話の格好の事例みたいなことになるわけだが、俺が言えることは子供たち・生徒たちは自立すべしということぐらいだな。
 それは学校からの自立ということだよね。
 そうだ。もちろん自立というのは、いわゆる自己責任とはなんの関係もない。むしろ共同責任と言うべきもので、共通世界を担いそれに責任を持つ主体であれということだよ。その第一歩は学校や教育を批判的に捉え返して行くポジションを獲得することだろう。それができれば、学校に内部化されるさまざまな危険から距離をとることもできるんじゃないかな。まともな子供はいまでもそうしていると思うけどね。


2005/02/03(対話-73) 国家の没落(「菌」の増殖)

 今回は国家の没落というテーマでやるのか。たしかに前々回君が言っていた言葉が成立する文脈の崩壊、あるいはもっと一般的には伝統と文化の崩壊ということ、そうしたことが国家の没落によっているということは言えそうだね。前回話題になったブッシュ演説における自由のイデオロギー化や物神化、あるいは階級利害化ということも同じことに起因しているとも言えそうだが。
 最後の自由の階級利害化というのはちょっと違うよ。その場合の階級というのはホイッグ、あるいはブルジョワジーのことには違いないんだが、ブッシュの言うそうした欺瞞的な(つまりホイッグの利害をアメリカ全体の利害と言いくるめるような)自由を貧乏人も労働者もみずからの理念として受け容れてしまうような、そういう言葉が成立する文脈の崩壊が問題なんだよ。
 まさにそういうことだよね。言葉の上でさえ公正さをともなわない自由がまかり通ってしまうというのは信じ難い話だが、それは階級社会の大衆社会化とも関係があるよね?
 アメリカ社会というのは19世紀から20世紀後半にかけて、おおまかに言えば19世紀のアンドリュー・ジャクソンの時代から20世紀後半のリンドン・ジョンソンの時代にかけてかなり流動性が高かったわけで、従ってもともとアメリカの階級社会はヨーロッパや日本のそれとは根本的に違う。俺はよく知らないんだが、男子にかぎって言えば普通選挙権が与えられた(獲得された)のはアメリカがいちばん早かったんじゃないのか? しかし20世紀終盤以降、つまりレーガン時代以降のアメリカ社会はそれ以前とはかなり違って来ているんだよ。
 つまり文脈の基盤であるアメリカ社会が変わったんだと?

 まあね。しかしアメリカについては去年「アメリカという問題」(対話-69)でちょっと触れたような特殊な事情があるから、また機会を改めてやることにしよう。いや実はハンナ・アーレントの夫であるハインリッヒ・ブリュッヒャーが56年2月14日付けでヤスパース宛にものすごい手紙を書き送っていることを最近知ってね。その手紙のテーマが国家の没落なんだよ(『アーレント=ヤスパース往復書簡・2』みすず書房P.55-60)。
 なるほど。アーレントの言う国民国家の没落のことだな。
 まあね。しかし1956年と言えば、アーレントの方は『人間の条件』(1958)を準備していた時期だから、国民国家の没落ということを主題的に展開した『全体主義の起源』(1951)の頃の問題意識からは離れていたんじゃないのかな。
 つまりブリュッヒャーが言っていることはアーレントのそれとは違うということかな?
 違うとも言えないんだが、やっぱり違う。別人格なんだからあたり前の話なんだが、ブリュッヒャーのこの手紙は『革命について』(1963)を先取りしているところが濃厚なんだよ。
 なるほどね。要するに大衆社会化のことだな。それでブリュッヒャーはなんと言っているんだ?
 訳文は400字詰め原稿用紙にして13枚程度のものなんだが、あまりにもたくさんのことが凝縮して語られているからポイントを絞るのは難しい。しかし、「このような土壌(国家が国民的なものに乗っ取られたところーー引用者)にはもはや草一本生えず、どこかに国民的可能性を発見しようとする試みはすべて、ただちにナショナリズムのペテンにからめとられてしまうのです」(同上P.59)と言われている部分が、ブリュッヒャーの考えの核心に触れているとは言えるかもしれない。

 なるほど。ブリュッヒャーに言わせると大衆社会では草一本生えないんだ(笑)。
 草は一本も生えないが、「自己増殖してすべてを食い尽くしてしまう真菌性患者」(ヤスパース/同上P.52)やそれを媒介する「菌」の方は猛烈な勢いで増殖するということだよ。
 ナショナリズムは「菌」なんだ(笑)。
 帝国主義時代以降のナショナリズムはとりわけそうだろう。
 ブッシュの言う(公正なき)自由というのも「どこかに国民的可能性を発見しようとする試み」、それも末期的な試みなんだろうが、小泉や日本のマスコミの言う「改革」も似たようなものだろうね。
 そうも言えるかもしれないが、ブリュッヒャーが言っているのはもう少し"上等な"試みのことだよ。
 例えばどういうものだ?
 日本で言えば、例えば本居宣長の国学だとか、平泉澄の日本史学だとか、最近で言えば西尾幹二の『国民の歴史』みたいなものだよ。だんだん通俗化して来ているが(笑)。
 国士みたいなやつらが「菌」なんだ(笑)。
 というか、小泉にもそういう傾向はあるんだが、なにかあるシンボリックなものを持ち出すやつが危ないんだよ。そういうやつらが草一本生えない土壌をお膳立てするんだよ。実際の破壊者は国民や大衆の方なんだが、彼らが力を合わせて国家を崩壊・没落させてしまうんだよ。
 なるほど。ところでブリュッヒャーの言う国家とはどういうものなんだ?

 端的に言えば国民的でも大衆的でもないもののことだよ。そういうものの対極にあるもののことで、ブリュッヒャーは「国家と市民だけが、盲目的な人間社会と個人の諸事件がつくりだす底流から、人間が文明を築くことのできる沃野を潤すがゆえに歴史的と呼ばれるに値する、あの小さな川をひくことができるのです」(同上P.57)と言っているよ。言い換えれば、「創造的理性が出来事を生み出しつつその進路をともに決めてゆく、真の歴史の進路」(同上P.58)の地盤たりうるなにか、のことだよ。
 つまりアーレントの言う権力のことだな。もう少し広く言えば法、あるいは世界か。
 まあそうなんだが、ではアーレントのそうした考え方や概念はどこにから来ているのかと言えば、ブリュッヒャーのこれらのカント的な政治観・国家観からだろうね。ブリュッヒャーはカントのほかに「ゲーテ、ハイネ、トックヴィル、ブルクハルト、ニーチェ」などの名前を挙げているが(同上P.58)。
 ブリュッヒャーはその昔スパルタクスの団員だったわけだから、その共和主義はローザ・ルクセンブルクゆずりなのかもしれないが、それをカントの『判断力批判』まで遡ってアーレントに手渡したのかもしれないね。アーレントの母親のマルタがローザの信奉者だったこともあるだろうが。
 20年代〜30年代のハイデガーやリルケの磁場・引力圏からアーレントをひっぱり出したのは、マルタというよりブリュッヒャーの方であることは間違いないよ。
 しかしエリザベス・ヤング=ブルーエルが書いたアーレント伝や矢野久美子の評伝的な本にはそういうこと、つまりブリュッヒャーのカント的共和主義の影響ということは書かれていないよね。
 だからこれは俺たちの"発見"かもしれないわけだよ(笑)。いずれにしても、アーレントの夫のブリュッヒャーは普通考えられているよりも遥かに大物だということだよ。


2005/01/26(対話-72) 自由と公正

 前回からまたしばらく間があいてしまったようだが、今回は第2期ブッシュ政権の発足に触れないわけには行かないんじゃないか。
 まあそうだろうな。俺が読んでいる『朝日』と『日経』でも大きく紙面を割いていたからね。
 じゃ就任演説から行くかい?
 そうだな。「約20分間の演説を通じ「フリーダム」という単語を27回、「リバティー」を15回使った」(『朝日』)と言われるブッシュの就任演説から行こうか。
 それで君はブッシュ演説をどう思った?
 演説の始めの方でブッシュは「我々は米国建設の日から、すべての男女は諸権利と尊厳、無比の価値を持つと宣言してきた」(『朝日』)と述べているが、それは嘘だよ。独立宣言にいう「すべての人は平等に造られ」の「すべての人」は"all men"だからね。つまり女性は含まれていないんだよ。
 えっ、そうなのか。しかしなんでブッシュは嘘なんかついたんだ。
 知らないよ。ブッシュというよりブッシュのスピーチ・ライターがわざと入れたんだろう。
 なんだかよく分からないな。それでその他の部分についてはどうなんだ?
 ブッシュは一貫して自由がアメリカの基本原理であるかのような言い方をしているが、それも嘘だよ。独立宣言にしても合衆国憲法前文にしても、自由よりも前に平等や正義や福祉ということが言われているからね。ブッシュが引用しているリンカーンの言葉(「自由を否定する者は自由を受けるに値しない」)だって同じだ。だから自由と公正の両輪がアメリカの原理であると言うべきなんだよ。

 そんなのあたり前の話だよね。しかし、なんだって『朝日』や『日経』を含むマスコミは「ブッシュは嘘をついているぞ」って言わないんだ。
 分からないよ。内政干渉をしたくないんじゃないのか。ブッシュ演説の嘘を指摘するのはアメリカ国民であると考えているのかもしれないし、第2期ブッシュ政権発足祝いという意味もあるだろうし。
 あるいは、自由(freedom)と公正(fairness)ということが現代世界の中心的な価値であることを、マスコミもその周辺の論客もコメンテイターたちも理解していないんじゃないのか?
 たしかにそれはありうるね。ブッシュ政権の単独主義をけっこう激しく批判して来たマスコミとその周辺の言論人たちが、第2期ブッシュ政権のマニフェストに見られる明白な嘘を見過ごしているように思われるということは、実は彼らもブッシュと同様の自由原理主義者だからなのかもしれないね。
 ブッシュは政治的自由・精神的自由と経済的自由・財産権を区別していないんだろう?
 しているわけがないじゃないか。ブッシュ自身はそれらの自由を区別して理解しているのかもしれないが、新自由主義者と思われるブッシュのスピーチ・ライターが、そういうオールド・リベラリストみたいなことを書くわけがない。なにしろ現代の共和党政権なんだから。
 そうだよね。それを区別するということは、経済的自由・財産権に一定の制限を認めて公正(fair)な社会を目指すというということだからね。
 そう。リンドン・ジョンソン政権下の「偉大な社会」を目指す「貧困との戦い」がまさにそれだった。フェアでなくてはフリーダムもないというのは、いまでは常識とは言えないのかな?


2005/01/10(対話-71) 個体性、共同性、言葉

 ちょっと遅くなってしまったが、今年もよろしく。
 こちらこそよろしく。しかしそれにしても遅いね。もう1月10日だぜ。君と会うのも去年の12月15日以来だから、ほとんど1ヶ月ぶりじゃないか。
 確かにそうだな。年末から正月にかけて両親のところに行ったり、友達にすすめられた作家のものをいろいろ読み漁ったりとか、ちょっとバタバタしていてね。
 友達にすすめられた作家って誰だ?
 女流ミステリー作家の桐野夏生だよ。しかし彼女についてはまた改めて話をすることにして、まずは今年の抱負みたいなことを話しておかなきゃならないだろう。
 なるほど。じゃあ君から始めてくれよ。
 まあこれは今年の抱負と言うよりも、21世紀に生きるわれわれの中心的テーマになって行くと思うんだが、人間の個体性と共同性ということがいまいちばん大きなテーマなんじゃないのかな。
 それは人類発生以来というか、文明発生以来というか、もう少し絞り込んでもソクラテス、プラトン以来のテーマと言えるんじゃないのか?
 それはそうだよ。しかし、そのテーマにどう答えて行くかということが人間の歴史でもあったわけで、人間が歴史の終焉などということを受け入れるのでないかぎり、いつの時代においても新しく始められなければならないテーマでもあったし、これからもそうであるだろうということだよ。但し、もし人間が人間の共同性を廃棄することになれば、人間の歴史は本当に終ってしまうだろうが。

 もう少し具体的に言ってくれないと分からないよ。
 じゃあ具体的に行こうか。1月3日の『日経新聞』に5人の経済人・政治家などの「小泉純一郎様」あての希望・要望みたいな文章が載っていたじゃないか。そこにキャノン社長の御手洗富士夫氏が、「グローバリゼーションの波が押し寄せる中、日本の社会システムは時代に適合できなくなっているのではないでしょうか。経済の世界では市場重視の仕組みが広がり、競争原理が定着しています。日本は教育などあらゆる面で平等の考えに慣れすぎています。今こそ平等から公正・公平を軸にした競争社会に移行していくべきです」という文章を寄せているんだが、君はこれをどう思う?
 御手洗氏はキャノンのトップだから、ミクロ経済の主体だろう? そういう人がマクロな社会システムの話をするのはおかしいよ。それに「平等から公平へ」という言い方は欺瞞だよ(『日経』がそういうタイトルを付けているんだが、御手洗氏はそれを受け入れたと思われる)。
 そうだよね。「平等」と「公平」とはほとんど同じことだからね。だから「平等から不平等へ」とか「平等から競争へ」とすべきだろう。しかし、御手洗氏や『日経』のような言い方が必ずしも欺瞞であるとは受け止められないというのがいまいちばんの問題であるわけだよ。
 それは言葉や言葉の意味が崩壊しているということなのかな?
 言葉も崩壊しているのかもしれないが、ここでは言葉とその意味が成立する文脈が崩壊していると言った方が正確かもしれない。企業のトップが責任を負っているのはまずは株主、それから従業員、更には消費者やさまざまな顧客に対してなんだから。だから企業が競争において優位に立てる社会環境を要求するのは自然なことなんだが、教育の機会均等を批判したりするのはおかど違いだよ。

 公平を期すために言っておくと、ファーストリテイリング会長の柳井正氏も、「小泉さん以外に首相を務めてほしい政治家は今いません。だから死ぬ気でやってほしい。「小さな政府・自由主義経済」を実現すべきで、このままでは個人も企業も国と一緒に沈没します。・・・ もっと過激な策を取るべきです」と言っているよ。
 そうだね。要するに企業家たちは口を揃えて自由競争を旨とする社会を要求するわけだが、そのために寡占や独占や「情報の非対称性」を排除する経済政策などは言わない。財政再建へ向けた増税についても、個人と法人の所得税率の累進性を高める制度改革など口が裂けても言わない。消費税率の引き上げしか言わない。まあ正直と言えば正直なんだが、彼らの言う「自由」で「公正」な「競争」というのが原理的な要求なんかではなく、彼らの利益を最大化するかぎりのものであること(要するに日本のホイッグ〔Whig〕たちのいわば階級的利益の主張にほかならないこと)は押さえておく必要がある。
 君がはじめに言ったテーマに戻ると、そこでは彼らの個体性の要求が言われるだけで、人間の共同性(公共性)への配慮なんか見られないということかな?
 そうだよ。柳井氏は「世界との共生」ということも言っているが、その内実は規制を廃して日本を徹底的にグローバル化すべしということだからね。
 そういうことは「世界との共生」とは言わないよ(^^)。それにしても言葉と意味とそれが成立する文脈の崩壊ぶりはひどいもんだな。
 だろう? 言葉の崩壊というのは伝統や文化の崩壊ということだからね。つまり、俺が最初に言った人間の個体性と共同性というテーマが成立する地盤自体(即ちハンア・アーレントの言う世界)が消滅しかかっているということだよ。いまの言葉とその文脈の崩壊という事態を象徴しているのが、ブッシュ政権の単独行動主義や小泉のワン・フレーズ(無文脈言語)ポリティックスや『日経新聞』などのマスコミ報道であるわけだが、まずは言葉と意味とその文脈を取り戻す(新たに構築する?)ことが当面する緊急の課題なのかもしれないね。

つぶやき(10)へ  つぶやき(9)へ  つぶやき(8)へ  つぶやき(7)へ  つぶやき(6)へ
つぶやき(5)へ  つぶやき(4)へ  つぶやき(3)へ  つぶやき(2)へ  つぶやき(1)へ

トップページへ戻る